2014年5月25日(日) 偉い人になりたい者は、仕える者になりなさい
おはようごさいます。山田教会の泥谷ちひろと申します。
わたしの家の前には田んぼがあります。毎年、かなりの量の収穫を得ています。今年も田植えは終わり、すくすくと成長しています。やがて8月になればそれまでの緑の田んぼが黄金色に変わります。収穫の秋という喜びの季節が来ます。この収穫の時、毎年教えられることがあります。それは、実がいっぱい詰まっている穂は、重く垂れ下がっています。しかし、穂の中身が空っぽのものはただまっすぐに天を向いて突っ立っているだけです。稲の実は稔れば稔るほど、穂は重くなり、頭を垂れます。収穫の秋が来て取り入れに忙しい農夫が喜ぶのは、重く穂を垂れている稲穂であることはいうまでもありません。昔からこの稲穂の有様は、わたし達人間への一つの素晴らしい教訓になっています。皆さんはもうその教訓をご存知のことと思います。本当に実力に満ち溢れている人は、高ぶりません。本心から謙遜です。
オリンピックの勝者がテレビ記者に優勝の感想を求められたときの言葉を思い出します。また、国民栄誉賞を頂いた人々の言葉の中身の重さを感じさせられます。ところが、人はどんなに自分を低くしようとしても、首尾一貫して、生涯謙遜であり続けることはできません。いつの間にか鼻を高くして、他を見下げる高慢に陥っている自分に気づかされます。
ここに、首尾一貫して生涯自分の身を低くして、神と人とに仕えた方がいらっしゃいます。それは、神の子であり人の子でいらっしゃるイエス・キリストです。聖書ではこの方は、「言」と呼ばれています。この方は、天地が造られる前からおられました。この方は天地を無から創られた神の子でいらっしゃいました。この方がマリアからお生まれになり、人になられました。神の子でいらっしゃるお方が人となられたのですから、この方は完全な人であるということはいうまでもありません。したがって、一点一画も欠けたところのない完璧な人です。この方が100パーセント完璧な人であることを聖書は次のように言い表しています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)
神を愛する人は謙遜を身につけたいと願います。そのように願う人をキリストは助けてくださいます。そして十分に稔った穂のように穂先を垂れさせてくださいます。イエス・キリストは皆に「互いに謙遜を身につけなさい。なぜなら、『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになるからです』」。(1ペトロ5:5)