2014年5月11日(日) 悲しむ人々は、幸いである

 おはようございます。今朝もご一緒に聖書の言葉に耳を傾けましょう。今朝の聖書の言葉は、先週に引き続いてイエス・キリストの山上の説教の中の一節、「悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)という言葉です。
 この言葉は不思議な言葉です。ふつうに考えますと、理解できないような言葉です。“微笑んでいる人々は幸いだ”、あるいは“笑っている人は幸いだ”という言葉なら、素直に納得できます。“悲しむ人々は幸いだ”などと聞けば、何を言っているのか、と問い返したくなるような言葉です。キリスト教会でも、この言葉を理解することはやさしくはなかったようです。「悲しんでいる」とは、罪に悲しんでいる人を意味する。罪に激しく悲しむ者には、回心が起こり、イエス・キリストを通して罪の赦しを与えられるから幸いだと考えられました。
 確かにその意味も含んでいるでしょう。しかし、それだけでしょうか。わたしたちは、愛する者との別れや、肉体の重い病や、仕事の挫折や、人生の様々な問題や不条理の中で言い知れぬ悲しみの中に置かれます。このような悲しみと、今朝の聖書の言葉とは無関係なのでしょうか。イエス・キリストが、悲しむ人々は幸いであると語られた時、私はそれらの悲しみも含まれていると思います。

 しかし、たとえそうだとしても、悲しむ人々はなぜ幸いだというのでしょうか。この言葉も弟子たちに語られた言葉です。イエス・キリストを信じ、受け入れた者は、悲しみの中にあって幸いだと言われているのです。その理由も明らかにしておられます。「その人たちは慰められる」からです、と言っておられます。聖書は、この方について次のように語っています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブル4:7)。このような苦しみと悲しみを味わった方が、今や死からよみがえって、天にあり、わたしたちのためにとりなしてくださっています。それだけではありません。聖書は次に、このようにも語っています。「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:27)天上のキリストは、聖霊を遣わし、聖霊は悲しみの中にあるわたしたちと共にいて、わたしたちの中で呻きつつ取りなしてくださるのです。
 確かに「悲しむ人々は幸いである」とは不思議な言葉です。悲しみはどこまでも行っても悲しみです。悲しみだけなら、涙も枯れ果て、最後は感情さえ失います。心が凍りつき、石のようになってしまいます。そうしなければ、悲しみに耐えられず、生きて行けないからです。

 しかし、イエス・キリストを信じ、受け入れる者は、その悲しみの中にあって天にあってはキリストのとりなし、地にあってはわたしたちと共にある聖霊のとりなしによって、慰めにあずかっているのです。その慰めは驚くべきものです。聖書の黙示録21章3節から4節には次のように約束されています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 イエス・キリストを信じる者は、キリストが再びおいでになる時に与えられる、この究極的慰めをすでに今地上にあって味わうことが許されているのです。ですから幸いだと言われているのです。
 このように「悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。」というこの言葉は、イエス・キリストにある福音の慰め、生きる時も死ぬ時もわたしたちの唯一の慰めへの招きなのです。