2014年5月4日(日) 心の貧しい人々は、幸いである
おはようございます。お変わりありませんか。今朝の聖書の言葉は、イエス・キリストが教えられた有名な山上の説教の一節です。教会に通いだしたころ、わたしにはしばらくこの言葉の意味がよくわかりませんでした。“心が貧しい“という言葉を聴くと、なんだかいやな感じさえしました。心が貧しいとは、ふつうは“心が狭い”とか、“思いやりや愛がたりない”という意味に思われたからです。逆に、“心の豊かな人々は幸いである”と言われたなら、スッキリとわかったように思います。わたしたちは、子供たちにも、“心の豊かな人になりなさい”と教えているのではないでしょうか。
では、いったい”心の貧しい人“とはどういう意味なのでしょう。ここで言われている“貧しい”とは、“物乞い”という言葉と関係のある言葉です。“物乞い”とは、自分自身は何も持たず、空っぽの手でただその手を差し出し、憐れみを乞う以外にない者のことです。
宗教改革者マルチン・ルターは、62歳で世を去りましたが、その死の二日前に机の上に短い言葉を書き残していました。その文章の結びはよく知られています。その結びの言葉は、「われわれは物乞いだ。それは本当だ。」という一言でした。偉大な宗教改革者でさえ、世を去り、いよいよ神の御前に立とうとしたとき、自分は何も誇るものはない。自分はただ罪人にすぎない。 自分は、神の憐れみと恵みを乞い求めるほか何もできない。ルターはそう言いたかったのです。死を前にしてこの言葉を残したということは大切なことだと思います。わたしたちも、地上の歩みにおいてたとえ誇るべき業績や名誉や富があったとしても、世を去って神の前に出る時、自分が本当に恥ずべき者、罪と汚れに満ちた者と思わざるを得ません。これはわたしたちのような牧師の仕事をしていてもまったく同じことです。聖書が、“心が貧しい”というのは、このような罪と汚れに満ちた、心の物乞い状態の人のことを言っているのです。
けれども、どうしてその人が“幸いだ”というのでしょうか。わたしたちは、この言葉が弟子たちに語られた言葉であることを忘れてはならないと思います。“幸いだ”と言われているのは、罪と汚れの中から、ただ空っぽの手で憐れみを求め、イエス・キリストを受け入れた人のことが言われているのです。もし貧しいままならば、空っぽの手のままならば、わたしたちはみじめな者です。幸せでもなんでもありません。しかし、イエス・キリストをその時仰ぐならば、その瞬間にサッと恵みと愛の光が差し込むのです。
聖書によれば、イエス・キリストは、わたしたちのような罪人のために、その罪をあがなうために十字架にかかって死んでくださり、よみがえって今や天におられます。このイエス・キリストを受け入れる時、キリストの十字架のゆえに罪赦され、神の前に立ち、神との交わりに生きるようになるのです。キリストからいのちの水がわたしたちの中に溢れてくるのです。恵み深いキリストの御手の下で歩むようになるのです。わたしたちは今や、神の子、神の国の民となるのです。何と幸いなことでしょうか。
ルターが“自分が物乞いだ。それは本当だ”と言った時、同時に“キリストのゆえに罪赦されて、神の御前に立つことができる”と心から確信し、感謝と喜びにあふれていたのです。
「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである」。(マタイによる福音書第5章3節)これは、イエス・キリストのわたしたちに対する福音の言葉、喜びの訪れを告げる言葉なのです。