2014年4月27日(日) 主イエスと出会った人々〜トマスの場合
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。先週の日曜日はキリストの復活を記念したイースターの日でした。復活という出来事自体は、一瞬のことかもしれません。しかし、復活されたキリストがもたらす波紋は、1日限りのことではありません。少なくとも復活のキリストが姿を現す限り、復活のキリストは多くの人々によって目撃されます。聖書によれば、復活のキリストが地上を歩まれたのは40日にも及んだということです(使徒1:3)今週も引き続き、キリストの復活にまつわる人物を取り上げてお話ししたいと思います。
さて、キリストの十二人の弟子たちの中で、キリストの復活したその日に、復活のキリストにお目にかかれなかった弟子が二人います。一人はキリストを裏切ったイスカリオテのユダです。彼はすでに自分の罪の重さに耐えきれず、自ら命を絶ってしまっていました(マタイ27:3-5)。もう一人は、弟子のトマスです。彼はほかの弟子たちが集まっていたときに、たまたま同席していなかったために、復活のキリストに出会うという機会を逸していました。
トマスの身になって考えてみれば、ほかの弟子たちが復活のキリストに出会った話をしているのに、自分だけがその話の輪に入れずに、悔しい思いをしていたことでしょう。悔しさ紛れにそう言ったのか、それとも、もともと疑い深い性格だったのか、トマスは復活のキリストに出会った他の弟子たちに、水をさすようにこう言います。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
もし、世界中の全員がトマスのようであったなら、キリスト教はあっというまに途絶えてしまったことでしょう。しかし、もしトマスのような弟子がいなかったなら、トマスと同じようなことを言う人が後を絶たなかったことでしょう。
八日ののち、再び復活のキリストが弟子たちの前に姿を現したとき、今度はトマスもその場にいました。疑うトマスに対してキリストはこうおっしゃいます。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
ここまではっきりと示されたのでは、信じないわけにはいきません。トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えます。
イエス・キリストに対して「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけているのだとしたら、これは他の弟子たちが今までにしたことがないような信仰の表明です。
けれども、そのトマスに対して、キリストはさらにこうおっしゃいます。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
このキリストの言葉は、半分はトマス自身に向けられた言葉ですが、半分は復活のキリストを直接目にすることのできない人たちへの言葉であるように思います。
この出来事を記したヨハネ福音書には、「見る」という言葉が繰り返し登場します。イエスの地上での生涯を通して、このお方こそが救いをもたらすお方であることを目の当たりにしたという人々の証言に満ちています。
キリストが地上を離れ去ったあと、今までのようにはキリストと直接顔を合わせることはできません。しかし、キリストを直接見た人たちの証言はいつまでも残ります。この福音書が説く幸いとは、何も知らずに信じることではありません。そうではなく、直接見聞きした人たちの証言を通して、復活のキリストと出会い、このお方を信じて受け入れること、このことが幸いなのです。