2014年3月16日(日) 弱さの中で

 おはようございます。南与力町教会の森下明美と申します。今日はわたしが弱さの中で生かされていることをお話ししたいと思います。

 わたしは「両大血管右心室起始症」という心臓病をもって生まれてきました。 生まれたとき、全身チアノーゼのわたしを見て、父親は「ダメだ」と思ったそうです。長くは生きられないだろうと誰もが、またわたし自身も思って生きてきました。ですから、健康な人よりは早い頃から、死んだらどうなるんだろうと、考えていました。教会へ行き始めて、聖書を読んでから、神様は、こんなに小さくて弱いわたしのことを全てご存知で、髪の毛一本も数えられている。自分には力も命もないけれど、命の源の神様にはすべてがある。神様はこんな小さなわたしを知っていてくださって、愛してくださっている。この事は大きな大きな生きる力となりました。

 22才のときに最初の心臓の手術、そのあと2回目、3回目、その他大きな手術も何回か、入退院も20回を数えました。このように身体的弱さも抱えているわたしです。大きな手術の前に、『心療内科』を受診するのですが、その先生に「あなたは弱い、もろい人だ。芯があって弱い人はいるけれど、あなたには芯もない。本当に弱い人だ。」といわれました。言われた瞬間、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちました。どうしてこの先生は本当のわたしがわかったんだろう。何度も何度も手術してそれでもめげずに社会復帰しているわたしをみて、まわりのヒトは「明美さんは偉い。」「あんたは強い。」と言います。自分は決して強くないけれど、いかにも強い人であるかのように振舞ってきました。本当のわたし自身を分かってくださる先生の前で、弱い自分がさらけ出され、泣いたことでした。その後、先生は「これまであなたが生きてこれたのは信仰があったからでしょうね。」と言われました。大きな大きな神様の力と支えがあったから生きてこれたのです。

 もともと弱いわたしです。つい1、2年前のことですが、人間関係の中で精神的に落ち込んでむなしさを感じていたときがありました。その時、クリスマスの祝会で婦人会が「くつやのマルティン」という劇をすることになりました。マルティンは、子どもを次々と亡くしています。そして奥さん、最後には一人残った息子にも先立たれ、年老いて一人ぼっちになったマルティンは絶望のどん底にいました。神様に苦情を言い立てて、死ぬことを願っていました。教会から遠ざかっていたマルティンのところへ一人の古い知り合いが久しぶりに訪ねてきます。マルティンは自分の不幸を愚痴り、希望もなく早く死ぬことだけを願っていると話します。その知り合いの老人は「神様のなさることはその人にとって最善のことだから、けちをつけてはいけない」といいます。マルティンは「わしは何のために生きないといけないのか」と問います。その答えは、自分のためでなく、神様のために生きることだと語られています。神様のために生きるってどういうことかと問いただします。聖書を読むようにと答えて老人は去っていきます。原作ではマルティンは聖書を無心に読み続け、神様が何を望んでおられるか、何故神様のために生きなければならないのかが分かり、心に喜びが満ち溢れるようになったとあります。物語は続き、日常生活の中で神様を見いだし、自分のために生きるのではなく、神様や隣り人のために生きることを体験していきます。

 このマルティンの劇は当時、精神的に弱さを覚えていた自分にとって励まされ、力を与えられた、神様からのメッセージでした。そして、ある牧師に「森下さんは生ける広告塔だ」と言われたことを思い出しました。状況は違いますが、うつ状態になった弱さの中で、むなしさを感じていた自分にとって、このマルティンの話は、生きていることが隣り人の力になっていて、また隣り人のために、神様に、喜んでいただけることが少しずつでも出来ればいいな、と思いました。