2014年2月23日(日) 主イエスと出会った人々〜ニコデモの場合

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 イエス・キリストと出会った人々の中には、大変社会的な地位の高い人もいました。その一人ニコデモは、ユダヤ最高法院の議員を務める人でした。ファリサイ派に属する律法学者で、この派は最高法院の中で大きな影響力を持つ勢力でした。
 福音書の中では、ファリサイ派と律法学者と言えば、イエス・キリストに反対する一大勢力として描かれ、キリストもまたファリサイ派や律法学者のことを痛烈に批判しています。

 さて、そのファリサイ派に属するニコデモが、ある夜、イエス・キリストを訪ねてやってきます。他の福音書に登場するファリサイ派の人々や律法学者たちとは違って、敵対心をもってキリストに近づいたというわけではありませんでした。むしろ、真面目過ぎるくらいの探求心が、この人をキリストのもとへと連れて来たといってもいいくらいです。
 また、この人には先入観や偏見で人を裁くようなところも見受けられません。後に最高法院のファリサイ派の人たちが、下役たちをつかってイエス・キリストをしょっ引いてこさせようとしたときに、同じファリサイ派であったニコデモはこう言いました。
 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(ヨハネ7:51)

 この言葉の裏には、ファリサイ派の中では、すでにイエス・キリストの教えを断罪するムードが高まっていたことが読みとれます。下役をつかってイエスを連れて来ようとしたのも、単に断罪する口実を見つけ出すためとしか思えません。そういう雰囲気が大多数を占める仲間たちの中で、公正な裁判を恐れることなく主張したのがニコデモでした。このエピソードからニコデモという人物がどのような人であったのか、その一面をうかがい知ることができます。
 さて、ニコデモは人を教える立場の律法の教師でしたから、教える立場の人が誰かに教えを乞うというのは、勇気のいることです。まして、自分の仲間たちからは敵のように思われている人のところへ行くのは、ニコデモほどの立場になればそう簡単ではありません。
 ニコデモは、夜、イエス・キリストのもとを訪ねたと記されています。しかも、ヨハネによる福音書は全く違う場面でも、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(ヨハネ19:39)とニコデモのことを表現しています。ニコデモが夜の時間を選んでやってきたことが、ことさらに強調されています。しかし、人目をはばかってでも、イエス・キリストのもとを訪ねてみたいという思いがあったからでしょう。

 キリストのところへやってきたニコデモには、たくさんの聞きたい疑問があったはずです。しかし、二人の会話の主導権は、たちどころに主イエスご自身が握られます。人間にとってもっとも根本的な問題へとキリストはニコデモの目を向けさせます。
 「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 唐突にそう言われたニコデモとイエス・キリストとの会話はかみ合いません。
 結局このニコデモはキリストの教えを理解することができたのでしょうか。ニコデモがイエス・キリストを信じるようになったかどうかは、残念ながら聖書には記されていません。しかし、十字架にお掛りになった主イエスの遺体を葬るために、進んで手伝ったのはこのニコデモでした。あの日の出会いをきっかけにキリストの教えを深く思うようになったのかもしれません。