2012年11月25日(日) 一人ひとりが違うから

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 今朝は人の話を聞く、ということについてお話したいと思います。おそらく、たいていの人は誰かから相談を受けるという経験をしたことがあるのではないかと思います。あるいは相談というほど大したものではないにしても、愚痴を聞いてあげるぐらいのことは経験がおありかと思います。

 そういう相談ごとに乗っているときに、ときどき相手の方から「そう言ってもわかってもらえないですよね」という言葉を聞くことがあります。「分かってもらえないことが分かっているのなら、相談などしなければよいのに」と心のなかで思ったりもしますが、しかし、無理と分かっていても、それでも聞いてほしいことがあるのだと思い、耳を傾けることにしています。
 確かに、相手のことが分かるなどと言ったら、それは大きな嘘になります。男は女のことがよくわかりませんし、若者は年寄りのことが分かりません。自分が通って来た道とはいっても、年下の人の気持ちがわかるといえば、そんなことはありません。一人ひとりが違っているのですから、同じことを体験したとしても、同じように感じるとは限りません。男ならみんなこう思うとか、女ならこう感じているはずだ、などと思いこむ方がかえって危険です。

 自分が体験したことなど、全世界の一人ひとりが体験していることと比べれば、ほんの一部のことにすぎません。分かると思って聞くよりも、分からないと思って耳を傾けた方が、ずっと真摯な態度です。分からないという前提で聞くからこそ、もっと理解しようと真剣になれるのだと思います。この理解しようとする心が、何事にも大切なように思います。
 けれども、分からないということと、共感できないということとは違うように思います。まったく分からないのに共感するということはありませんが、全部が分からないにしても、分かる部分で共感することはできます。人の話を聞く上で、この共感できる部分を見出していくことが大切です。こう言っては大げさかもしれませんが、共感できる相手を見出すことで、人生相談の半分は解決したようなものです。なぜなら、人は共感してもらえる相手を見出すことで、前へと進む力を得ることができるからです。

 ところで、人の話を聞くことは忍耐のいることです。というのも、人は話を聞くときに知らず知らずのうちに、自分の関心で相手の言うことを聞いているからです。自分に関心がない話だったり、自分の期待や予想に沿わない話の展開を最後まで聞くのは骨の折れることです。ついつい、自分の関心からいろいろな質問をして、相手の話を遮ってしまい、自分の関心の枠の中だけで相手を知ろうとしてしまいがちです。そうなると、相手を理解することはますます難しくなってしまいます。話を聞くということは、いったん自分の関心や興味を白紙にして、相手の話したいことを相手のペースで聞く忍耐が必要と思います。

 さて、そこまでして人の話に耳を傾ける必要があるのか、という疑問もあるかもしれません。そもそも、どうしてこんな話をお話しているのかと思われる方もいらっしゃることでしょう。人の話を聞くということは、その人を理解しようとする心を育て、理解しようと思う心が、一人ひとりがこの世に存在する大切さを見出す機会を生み出すからです。いえ、一人ひとりを違うように神さまがお造りになったからこそ、一人ひとりを通して語られる様々な事柄に耳を傾ける楽しさがあるのです。