2012年10月14日(日) 信じるとは従うこと
皆さんおはようございます。わたしは高知県下でただひとつのミッションスクール清和学園の校長の、黒田 朔と申します。この4月から校長となり高知に住み始めましたが、それまでは28年間、ハワイにある「高知城」といって知られていますマキキ聖城キリスト教会の牧師をしていました。
そのわたしが初めてホノルルに着いたとき、驚いたことがありました。郵便ポストが赤ではなくて、青いんです。日本では消防自動車は赤に決まってますが、ホノルルに着きますと黄色い自動車が右側を走ってたんです。ビックリしました。たった飛行機で8時間飛ぶだけで、これが当たり前だと日本では考えられているその当たり前が通じない、日頃の理屈が通らない世界にいるんだな、っていうことに気がつきました。
わたし達の生活を考えてみますと、これが当たり前、それ以外は間違いみたいに思っていることって結構あるんですよね。たとえば日頃、わたし達は神様抜きで生活していますから、わたし達の理屈は「目に見えないもの、手で触れないものを信じるのは馬鹿だ、それは迷信だ」というふうに言います。だから「信じて欲しけりゃ証拠を見せろ」と言うんです。ところが聖書は「信じてみなさい。そうすれば分ります」と言います。またわたしたちは「自分の願いが叶うように」 と神様を信じるということをよく言いますが、聖書はそういう理屈じゃないんですね。「信じて従ってみなさい。そうすれば願いが叶います」と語るんです。そして、それは本当なんですね。
わたし自身高校生の時に「分れば信じる」と言っていつも理屈を言ってたんですが、あるとき「聖書を信じる」とこう決めてそれからなんともう50年経ちました。そして今まで従ってみて、こう確信を持っていうことができます。「本当に神様、あなたは真実なお方だ、と今は分ります。本当にわたしは今信じてきて良かったと思います」。これは信じて従って分かったことです。
つまり、神様を信じるっていうのはその存在を認めることだけじゃないんですよね。聖書の神様はいうならばチャレンジの神様です。婚約中のマリヤに「あなたはみごもって男の子を生むでしょう。その名をイエスと名づけなさい」(ルカ1:31)とチャレンジされました。マリヤにとって信じるっていうのは、本当にいいいなずけのあのヨセフのこと、いろんなことがあるなかでこのチャレンジを受けとめ、そして従うこと、それが彼女にとって神を信じることでした。
それは、今のあなたにもわたしにとっても同じことです。サラリーマンであったわたしの心の中に「一生このままで良いのかな」と言う思いが浮かびました。仕事は面白くって、給料も悪くない、文句はないのに、「このままで良いのか」と言う思いは消えませんでした。そしてあるとき、これは神様からのチャレンジだと気がついたんです。もう既に結婚もしてました。長男も生まれてました。家族への責任もあります。「ハイ、分りました」 と簡単に言えませんでした。「お金、大丈夫かな」。もちろん聖書を知ってましたから、「空の鳥を見よ、野の花を見よ。養い、飾って下さる神様が居られる」。知ってました。でも心配でした。幾ら心配しても答えは出ませんでした。そして信じるっていうのは、その心配を神様に任せることだということで一歩踏み出すことにしたんです。
それから41年経ちました。本当に今感謝しながら、清和学園の校長という新しい働きをさせていただき、毎日を楽しんでいます。
あなたも心配を神様に任せて一歩踏み出してみてください。そうしたらあなたのために神が準備していてくださる恵みの世界が広がっていくんです。
聖書にこんな言葉があります。「 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31-33)。
あなたのために備えられている新しい世界を、ぜひ一歩踏み出して見つけていただきたい、そのように思います。
それじゃまた来週お会いしたいと思います。ごきげんよう、さようなら。