2012年9月30日(日) 神の愛に寄りすがるとき
おはようございます。南与力町教会の丸岡洋希と申します。
早朝から食べ物の話で恐縮ですが、あなたの好物は何でしょうか。和食?フランス料理?あるいは中華料理派でしょうか?お好みは肉系、魚系、もっとシンプルにラーメン、カレー、オムライス、寿司!など如何でしょう。
そんな中で、今まで一番おいしかった食べ物は何だったでしょうか。一つだけ選ぶとなるとなかなか難しいですね。わたしも65年間で何が一番だった?と問われると困ってしまいます。それぞれのすばらしい味や、その食事の場面が思い起こされます。
何か一つとなるとどうしても外せないものがあります。
高校時代、わたしはソフトボール部でした。真夏の炎天下での練習は延々と続き、流れ出る汗はやがて塩となり、顔にへばりつきます。50年程前は、練習途中に水分を取るのは体調を崩すということで許されませんでした。練習の仕上げはノックと全力疾走のベースランニングです。へとへとになりながらグランド整備を終えると、一目散に向かうところがあります。水場です。
先輩から順に冷たい水にかぶりつきます。ごくごく、ごくごくごくごく、ごくごくごくごくごく。待っているわたしたち後輩にとっては待ちきれない時間です。やっと自分の番が来て、水道栓のコックをひねります。冷たい水がじゃんじゃんと喉を通り、体全体にしみとおって行きます。息もつかずに飲み続け、なかなか水道栓から離れられません。
体の渇きを潤してくれた、あの水は清らかで、新鮮で、甘く、やわらかな幸せを感じさせてくれました。渇ききった体に広がる水の潤いは心も満たしてくれました。
体が渇くのと同様に、心に渇きを覚えることもあります。わたくしもそうですが、職場や学校、時には家庭内でも、様々な問題や試練に心を痛め、一生懸命の努力も報われず、解決できないまま、やがて人間関係にも悩むという方も少なくはないでしょう。悶々とし、心も体も疲れきり力が萎えてきます。そんな時、心の疲れをどのように癒すのでしょうか。旅に出たり、趣味やスポーツに専念したり、温泉で疲れを癒すこともありましょう。しかし、それらは一時の慰めに終わります。やはり、心の支えとなるのは家族や友人の温かい愛情ではないでしょうか。信頼する方からの愛に満ちた言葉や支えには、何よりも慰められ、元気づけられます。
しかし本当に残念なことに、わたくしたちの愛には限界があります。母の深い愛、父の強い愛もいつまでも子どもを包み込むことはできません。家族や愛する者との団欒は、やがては永遠の別離に変えられます。
それでは、わたくしたちの愛の交わりは一時のものに過ぎないのでしょうか。
聖書では、愛は空しいものではない愛は滅びることがない、そして母の愛をはるかに越える、人知を超えた完全な神の愛が存在すると教えています。
完全な愛とはどのような愛でしょう。神は一人ひとりに息を吹き込み命を与え、心に愛を宿らせてくださいました。その尊い命が人の死ということによって空しく消え去らないように、神は「命の救い」の備えをしてくださいました。この救いの備えこそ完璧な愛です。すなわち、神様は死という最大の絶望を永遠の命という希望に変える力と愛を持っておられる方であることを、聖書は明らかにしています。
日々の悩みや悲しみ、今日の疲れや明日の不安を覚えるとき、どうかこの神の愛の教えをポケットから取り出してみてください。その愛に寄りすがるとき、渇いた体に水が潤いを与えるように、渇いた心に愛の光が灯され、慰めと安らぎを覚え、心と体に生き生きとした希望と力が与えられるのではないでしょうか。