2012年9月23日(日) 確かな希望とは

 おはようございます。高知教会の久保浩文です。
 わたしの住んでいる高知市上町は、坂本龍馬の生誕地として有名です。上町には、龍馬にまつわる記念館や記念碑などがあちらこちらにあって、「街歩き」をするには良いところです。わたしも高知に住むようになって、毎朝、愛犬を連れて近くの鏡川の河川敷を散歩するのが日課でした。
 河川敷にはたくさんの木々や花が植えられており、四季折々の花を楽しむことができます。かつて龍馬が通っていたという日根野道場の近くには、見事な桜並木が数百メートルにわたって続いています。春には歩いて花見ができます。秋になると葉が落ちて、冬の間は毎日眺めていても何の変哲もなくむしろ殺風景な感じさえします。しかし、また春が近づき啓蟄を迎えるとどこからともなく虫が這い出てくるだけでなく、木々も芽吹いて、また美しい花を咲かせてくれます。寒い冬の間枯れていたように見えた木々も実は、じっと幹と枝の中に十分な栄養を吸収し蓄えて、花を咲かせる春に備えているのです。そして、時がくると一斉に待ってましたとばかりに誇らしげに花をつけるのです。

 わたしたちの人生も、ある種、これと似たようなものでしょうか。人生にも幼年期、青春期、壮年期、晩冬期といった季節があるのです。
 神は、神の御子イエス・キリストを信じる者には最終的に天に蓄えられている財産、すなわち永遠の命と天の御国を受け継ぐ者として下さると約束して下さっています。しかし、この恵みを頂くために、わたしたちはこの地上にあって人生の四季を生き、その中で様々な嵐や風雪に耐え、艱難、試練の中にあって呻き、苦しみを経験します。それは、最終的な祝福と恵みに与るための、いわば産みの苦しみともいえるものです。
 試練、艱難といえば、出来ることなら避けて通りたい、楽な人生を歩みたいと思うのが人情です。しかし聖書は、わたしたちの人生において体験する試練は、わたしたちが神への希望と信頼を持つための一つの精錬の過程であると教えています。それは丁度、鉱石を高温の炉に投げ入れて、様々な混じりけや不純物を取り除いてより純度の高い上質の金属を作り出していく様と同じなのです。

 わたしたちにとって高温の火は、時には火傷のような痛手を与えるかもしれません。それでも、むしろその中でこそ、わたしたちの神に対する信仰が試され、平穏な時にはあまり意識することのなかった神の存在をこれまで以上に覚えることができるのです。
 気付かなかった多くのことに気づき、おのずと神に感謝し、賛美せざるを得なくなることもあるのではないでしょうか。そうだとするなら、わたしたちは苦難や試練の中にあっても、なお、希望と喜びを持つことができるのではないでしょうか。イエス・キリストにある信仰によって神の栄光に与れるということを希望して待ち望めるのです。
 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)。イエス・キリストへの信仰と希望は、決してわたしたちを欺くことはないのです。