2012年9月2日(日) 思い悩まずとも
おはようございます。高知教会の久保浩文です。
突然ですが、あなたはお掃除はお好きでしょうか。わたしは日常的な居間や書斎の掃除はさほど苦にならない方ですが、いわゆる大掃除となるとそう簡単にはいきません。普段、手の届かないところとか不用品の整理片付けとなると、結構骨が折れ多くの時間を費やさなければならないので、つい、おっくうになり先延ばしにしてしまいます。
特に、わたしの書斎は書棚に収まりきらない会議の書類や定期購読している機関紙や雑誌の類が所狭しと床に平積みになっています。それらがだんだんと埃をかぶってきたり、足の踏み場もなくなってきたりして、仕方なく、これらを整理整頓するついでに大掃除をすることになるのです。すると、平積みされた書類や本の間から新聞の切り抜きやパンフレットの類が顔を出してきます。それらは、「将来何かの役に立つであろう」と思って取っておいたものです。確かに、中には貴重な資料となるものもありますが、大半は不要になったり、期限を過ぎてしまったりしていることに気づきます。年に数回のこの大掃除の折にいつも反省させられているのは、あれもこれもと欲張っていろいろな物を手許においていても、実際に必要なもの、役に立つ物はそう多くはなかったということです。
わたしたちは、この世で多くの物に心と目を奪われ、物を持っているということにある種の安心感を求めているところがないでしょうか。聖書には次のような御言葉があります。
「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時は何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」(1テモテ6:7-8)
わたしたちは、母の胎から生まれ出た時には何も持っていませんでした。それでもわたしたちが生きられるのは、命を賜った神が必要な物をすべて備えていて下さるからです。朝、眠りの床から起き出てから、夜、再び眠りの床に就くまでの間、今日の一日を生きていく上で必要な物は全て神によって備えられるのです。ですから、わたしたちはまず、命の源であられる神に心を向けることで、「もし神が今日一日わたしに命を与え、生かして下さるのであれば、今日、生きるのに必要な全ての物は、神が与えて下さるであろう」と信じて生きることができます。
全知全能の神は、わたしたちが願う前からわたしたちの必要をご存じであられ、むしろ、わたしたちが心に思い浮かばなかった物でさえも、必要であると思われるものは適宜備えて下さるのです。神はわたしたち以上にわたしたちのことを心にかけて下さるお方です。ですから、わたしたちが自分の将来のために「あれも必要になるかもしれない、これも取っておこう。ほかに必要なものはないか…」と思いめぐらして心を悩ますよりも、まず、神がわたしたちの全てを守り導いて下さるであろうことに信頼をおくならば、その方がはるかに確かで、安心です。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)
これは神の御子イエス・キリストの御言葉です。イエス・キリストを通してわたしたちは神を「天の父」と呼ぶことができるのです。「天の父」に守られているという平安、祝福をあなたにも味わっていただきたいと、心から願っています。