2012年8月26日(日) 締め切りある人生
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
この何年か、地球温暖化のためか、いつまでも暑い日が終わらない夏が続いています。10月を過ぎてもまだ半袖シャツ一枚で過ごせる年もありました。まるで日本列島全体が南へ何百キロも移動したような感じです。
しかし、夏の終わりを告げるのは気温ばかりではありません。確かに気温を見ているといつまでも夏が終わらない気持ちになりますが、陽のあたり方やできる影の弱さを見ていると、どんなに気温が夏のようでも、それでも秋が近づいているのを感じます。空の高さも、これからどんどん高く感じられていくだろうと思います。気温だけでは測れない夏の終わりを、わたしたちは肌身で感じているのです。
ところで、夏の終わりというと思い出すことがあります。小学生だった頃のわたしにとって、夏の終わりを告げるのは、気温でもなければ空の高さでもありませんでした。たまった宿題の山を見て、毎年、もっと早く取りかかればよかったと後悔の気持ちでいっぱいになるのが、わたしにとって夏の終わりを告げる毎年の出来事でした。きっと今この番組を聴いている方の中には、そんなお子さんをなだめすかしながら、夏休みの宿題を手伝わされている親御さんもいらっしゃるんではないかと思います。
締め切りがあるというのは何と厄介なことだろうと思い始めた小学生の頃の思い出です。しかし、考えてもみれば、締め切りがない方が実はもっと恐ろしいことです。締め切りがあるからこそ、嫌々ながらでもなすべきことを前へと進めるものです。小学生の頃は無計画のままにギリギリになるまでため込んでいた宿題も、さすがに大人になるに従って、締め切りから逆算して何をいつまでにすればよいのか計画することができるようになりました。
これは人生においても同じことです。いつまでも生きることができると考え、まるで人生に締め切りがないかのように生きていると、気楽な感じがします。しかし、結局は何も学ばず、何も成し遂げないままに一生涯を過ごしてしまうのです。夏休みの宿題でさえ締め切り間際になって仕上げるのが大変なのですから、自分を仕上げる一生涯ともなれば、終わりが近づいたのに気がついてからではとても何かをするには遅すぎます。
ところで、人生の締め切りというと、一般的には自分の死期のことを考えがちです。確かに人間には死という区切りがあります。どんなに頑張ってもそれを超えて何かをすることができません。死を意識して、何かを仕上げようとする生き方は自然と日々の過ごし方も変わってきます。
けれども、ただ人間は「死」という締め切りに間に合うようにと今を生きているのだというのでは、あまりにも希望がありません。
聖書の世界では、死も確かにこの地上での生活の締め切りではありますが、しかし、それを超えた世界についても語っています。死という締め切りに間に合うようにと日々を生きるのではなく、やがて完成する神の国での新しい命にあずかることを前提に、この地上での生涯を歩むようにと聖書は勧めているのです。締め切りというのは単に終わりではありません。そこから新たな始まりがあるからこそ、締め切りにも意味があるのです。
聖書は一人一人の「死」という締め切りに加えて、この世全体が迎える終末についても教えています。終末というのは「終わり」という字を書きますが、聖書の世界ではすべてが終わってしまうという意味ではありません。むしろ「新しい創造」、「新しい天と地」という言葉によって表現されているように、新しい世界の始まりなのです。人は死ぬために生きているのではなく、新しい世界に生きるためにこそ、締め切りある人生を生きているのです。