2012年8月5日(日) バベルの塔
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
最近の東京の新名所と言えば、スカイツリーの話題が何かと聞こえてきます。つい先月までは、完全予約制だったために、まだ実際に展望台に上った人の話を直接聞いたことがありません。わたしも東京の新しい風景として、そのそそり立つ姿を外から眺めたことがあるだけです。
その高さ634メートルというのは、自立式の電波塔としては世界一の高さだそうですが、もっとも、人工の建造物にはこれを遥かに上回る高さの建物がすでにドバイにあります。さらに、これから2000メートルを超えるタワーの建設計画も世の中にはあると聞きますから、いったいこの高さ競争はどこまで続くのだろうかと思います。
別に高い建物をけなすわけではありませんが、高い建造物に不安を感じないというわけではありません。首都直下型の大地震に本当に耐えられるのだろうか、とか、火災が起きた時全員が無事に逃げ切れるのだろうか、とか、つい、いろいろと考えてしまいます。もちろん、設計者はそういう事態もすべて想定して、最もコストに見合った安全な建物を設計したに違いないと信じています。
ただ、わたしが抱いている不安には別の種類のものもあります。それは、こういう高い建物の建設の話を聞くと、どうしても旧約聖書に出てくるバベルの塔の話を思い出してしまうからです。もちろん、世界の名だたる高い建築物が皆バベルの塔だといっているのではありません。そういう思いは毛頭ありません。ただ単にわたしの頭の中で、高い塔のような建物からバベルの塔の話を連想しているだけのことです。こんなわたしの勝手な連想からバベルの塔の話になるのですが、このバベルの塔の話は実に示唆に富んでいると思います。
聖書によれば、人々が天にまで届くバベルの塔を建てようとしたのは、有名になろうという思いからでした。もちろん、有名になること、それ自体は悪いことではありません。問題は、天に届くような塔を建てることで名を上げることができるという発想です。天に届くというのは、言い換えれば、神の領域に人間が到達したという証しです。神の領域に到達することは人間には不可能なことなのですが、それができると思いこむところに人間の罪深い特徴が現れています。
技術の進歩や学問の発展は、人間に与えられた素晴らしい才能の結果ですが、その素晴らしさに溺れて、人間が神と同じになったと思いあがったり、神はもはや必要ではなくなったと勘違いしてはならないのです。
人がバベルの塔を建てようとしたもう一つの目的はこれです。それは、地に散らされていくことのないように、という願いからでした。言ってみれば、バベルの塔は統一と結束のシンボルです。もちろん、人が結束し統一を生み出していくことは悪いことではありません。しかし、神は人に対して、「産めよ、増えよ、地に満ちて、地を従わせよ」(創世記1:28)とおっしゃったのですから、一つのところにとどまって増え広がっていかないことは、明らかに神の御心に反しています。
確かに、一つのところに集中した方が効率的であるかもしれません。内輪で結束している方が安心感があるかもしれません。しかし、そういう便利さや安心感を幸福と思うところに、人間の危うさがあるのです。バベルの塔の話では、こうした人間の思い上がりや、勝手な幸福感はことごとく打ち砕かれてしまいます。
なるほど、バベルの塔はすでに打ち砕かれましたが、しかし、人間の思いの中には今でも神の領域に到達できるという思いあがりと、人間の結束が幸福をもたらすという勘違いがあるのではないかと思います。高い塔を目にすると、このバベルの塔の教訓を思い浮かべます。