2012年7月8日(日) イエス・キリストを待ち望む
おはようございます。芸陽教会の宮武妃呂美です。
ひと昔前のイスラエルでは、結婚を盛大に祝い、町中の者が総出でお祝いするために、できるだけ長い道のりを新婚夫婦は通って、新しい住まいに入って行きました。そして、結婚した花婿と花嫁は新婚旅行には行かずに、新しい家庭を一週間人々を招いて開放しました。この祝いのために招かれる友人は結婚式に列席するだけでなく、この一週間におよぶ祝いの期間につらなりました。
結婚式当日、花婿は花嫁のつきそいが眠っている間に突然、真夜中に来ることがありました。来るときには、決まりとして、先触れの男を送って、「さあ、花婿だ」と言わなければなりませんでした。しかし、その時はいつだか分からないので、花嫁のつきそいはいつでも町に出て、花婿を迎える用意をしていなければならなかったのです。
イエス・キリストは、このようなイスラエルの習慣になぞって、花婿を出迎える十人のおとめのたとえ話を語られました。このたとえ話では、花婿を出迎える十人のおとめのうち、五人は愚かで、五人は賢かったといいます。愚かなおとめ達はともしびは持っていましたが、油を用意していなかったのです。賢いおとめたちは、自分のともしびと一緒に入れ物に油を用意して持っていました。花婿が来るのは遅れたので、皆、うとうととして眠り始めました。ところが、夜中になって、「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がしたので、おとめたちはみな起きて、自分のともしびを整えました。
すると、愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言いました。「油を分けて下さい。わたし達のともしびは消えそうです」。しかし、賢いおとめたちは、「わけてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買ってきなさい」と言いました。そこで買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていたおとめたちは彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。その後で、愚かなおとめ達も来て、「ご主人様、ご主人様、開けてください」と言いました。しかし、主人は「わたしはお前達を知らない」と答えました。
果たして、このおとめたちのたとえ話はわたし達に何を教えようとしているのでしょうか。おとめたちが出迎えた花婿は、再び来られるイエス・キリストです。聖書には、イエス・キリストは、一度目は多くの人の罪を負うために来て下さいましたが、二度目に来られる時には彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られると伝えられています。このイエス・キリストがもう一度来られる時、このたとえ話の花婿のように、突然来るので、わたし達は油を用意しておかなければならないと語られるのです。
油はともしびを消さないよう、燃え続けさせるために必要なものです。油を絶やさずにいることの意味は、神様との親しい交わりを持ち、油断することなく心の中に信仰の火を燃やし続けることです。つまり、いつ来るか分からないキリストを待ち望み、神への信仰と期待を保ち続けることの必要を教えています。このたとえ話の五人の愚かなおとめ達は、神への信仰と期待という油を準備していませんでした。そして、いざ、花婿のイエス・キリストが来たときに、賢いおとめたちに油を分けてもらおうとしましたができませんでした。このことは、わたし達も他人の信仰をあてにして、その時に備えることはできないことを教えています。今すぐに、イエス・キリストを信じて、花婿の来られる日を待ち望む必要があるのです。
あなたは、イエス・キリストを救い主として信じ、もう一度この方が来られる日を待ち望む用意をしておられるでしょうか。聖書には、自分の罪を認め、キリストの十字架の恵みによる罪の赦しを受け入れた時、賢いおとめたちのように、イエス・キリストがもう一度来られる日を待つ用意が与えられることを約束しています。どうぞ、あなたも、今日、御言葉を聞いてくださり、イエス・キリストの十字架の恵みによる救いにあずかって、信仰の備えをいたしましょう。