2012年6月17日(日) 父の日
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
きょう6月第三日曜日は「父の日」です。「何とかの日」と名のつくものは、今ではすっかり商業ベースに乗せられることが多く、どの日も本来の意味がどこかへ行ってしまっています。父の日も例外ではありません。すっかり商戦に乗せられて、きょうのネクタイ売り場や紳士用小物の売り場は、さぞかしいつもにないにぎわいになるのではと思います。
ところで、この父の日の歴史ですが、調べてみると、もともとは1910年にアメリカで始まった記念日のようです。それは母の日が定められてから2年後のことでした。もっともこれには別の説もあって、1908年7月5日に、ウェストヴァージニア州のフェアモントで行われた坑道事故の犠牲者となった父親たちを追悼する会が最初の父の日のだとする人もいます。
いずれにしても、アメリカで6月の第三日曜日を公式に「父の日」と定めたのは、1966年のジョンソン大統領の時代で、1972年になってからやっと正式にアメリカ合衆国の記念日になったそうです。そう思うと父の日は案外歴史が浅い記念日なのかとも思います。しかし、国がかかわるよりもはるか前に父の日がアメリカ全土に広くいきわたっていたことには間違いありません。
日本に「父の日」の習慣がいつ入ってきたのかは正確には分かりませんが、少なくともわたしが小学校に入る前にはすでにあったように記憶していますから、1960年代の前半には日本にも「父の日」を祝う習慣があったことは確かです。
さて、父の日の由来としてもっとも有名なのは、ワシントン州スポーケーンに暮らしていたウィリアム・ジャクソン・スマートの話です。ウィリアムは、奥さんに先立たれてから男手一つで6人の子供たちを立派に育てあげた人でした。そのお父さんを記念して、娘のソノラ・ドッド夫人が始めたのが父の日の原型だと言われています。
この父の日の由来に関して特に覚えたいことは、この父親ウィリアムが子供たちから真に尊敬される父親であったということです。父の日があるので父親に敬意が払われるのではなく、父親を記念した日を定めたくなるほどに愛されていたウィリアムのことを思います。
男手一つで6人の子供を育て上げるということは、並大抵のことではありません。それだけでも賞賛に十分値します。しかし、それよりも賞賛に値するのは子供たちから真に愛され、尊敬されていた父親であったということです。それはウィリアムが立派な職業について立派な業績を上げたから、という理由ではないでしょう。そうではなく、子供たちに持てる限りの愛情を注いだからにちがいありません。
ところで、聖書では神を父として描く場面が少なくありません。その場合の父親像は、必ずしもいつも優しいお父さんとは限りません。慈愛に満ちた父である時もありますが、厳しい父親の時もあります。しかし、神が愛に欠けた父親であることは決してありません。
母親に比べて父親にはどうしても厳格なイメージがありがちです。威厳を保つために父としてつい厳しくなりがちです。ときには横暴であることを父親の威厳と取り違えてしまうこともあります。もっとも、昔の時代の父親と比べれば、今の時代の父親には威厳さもないと言われるかもしれません。ただ、どちらにしても大切なことは、子供たちを心から愛し、その成長を愛の眼差しをもって見守っているか、ということです。愛というのは、必ずしも優しさによって象徴されるものとは限りません。父なる神の愛に厳しさと優しさがあるように、人間の父親にもその両方が大切です。父親を思うこの父の日に、父親としてのあり方を父親自身が点検することの必要を思います。