2012年5月13日(日) わたしがクリスチャンをやめなかったわけ 第二話
おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。
聖書には次の三つの言葉があります。
一つ目は、「あなたがたがわたしに(わたしとはイエス・キリストのことですが)わたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネによる福音書15章7節)。
二つ目は、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に(父というのは神のことですが)父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章23節途中〜24節)。
最後の三つ目ですが、「得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブの手紙4章2節途中〜3節)。
先週から、「わたしがクリスチャンをやめなかったわけ」と題して4回に分けてお話しをしています。わたしがクリスチャンをやめなかったわけ、それを要約しますと、「神が祈りに答えて下さるから」です。キリスト教を信じる中で、それが単なる教えにとどまるのではなくて、神を客観的な存在だと信じられる経験をしてきました。それが、聖書が語るとおりに祈り、答えられたという経験です。
母がクリスチャンだった家庭にわたしは生まれ、幼い頃から困った時には祈りました。いつも答えられたわけではなくても、振り返れば本当に必要なことは答えられたと思います。お祈りは最初は小さなことから始まりました。たとえば、小学生の頃、探し物がある時によく祈りました。朝、通学前に教科書が見つからない。「神様、教科書を見つけて下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」。他にも財布や自転車の鍵がみつからない時にほんとによく祈りました。そして、祈ってからまもなく見つかったということが度々ありました。この経験は小さなことかもしれません。しかし、小さな祈りに答えられる経験を繰り返して、だんだん大きなことを祈れるようになっていきました。
祈ってみてそのとおりになると不思議な気がします。不思議とは思いますが、小さな祈りの場合、神に恐れおののくことはほとんどなかったです。一方、実現不可能に近いことを祈る大きな祈りに答えられた時、それは恐れすら抱きました。そしてこう思いました。「まるで、神はまるで生きておられるようだ」。神を信じていながら「まるで生きておられるようだ」と思うということは、神に対してわたしはなんと失礼な者かと思うんですが、正直、「神様は確かに生きてるんだ」という言葉が出てしまう。本当に人知を超えたお方なんだと認めさせられます。
そんな大きな祈りの経験を一つ紹介いたします。しかし、今日は触りの部分だけをお話しいたします。
わたしが大学1年の頃、原付バイクで通学し、当時バイクで自動車教習所にも通っていました。ある日、教習所でバイクに鍵をうっかりつけっぱなしにしたまま教習を受けました。帰ろうとしたら鍵がないことに気がつきました。不安に襲われます。どこかで落としたんだろうか。その日は親に迎えに来てもらい、バイクを置いたまま帰りました。後日、教習所に行ったらバイクがありません。教習所の人に聞いても知らないと言われ、盗まれたことにやっと気がつきました。そして、わたしはその後しばらしてからイエス・キリストの名によって祈り始めました。そして、やがてわたしは神に恐れおののく経験をします。この続きは次週、お話しいたします。