2012年4月29日(日) 柔和な心で
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
罪を犯した人を正しい道に連れ戻すことは大切なことです。もちろん、今言った「罪」というのは聖書がいう「罪」のことです。聖書がいう「罪」とは、神の御心にそぐわない行ないです。神の人間に対する御心とは、人間が神を愛し、人を愛することに要約されます。
そう言う意味での罪を犯した人間を、正しい道に連れ戻すことは大切なことです。そうでなければ、罪を犯した人間は、それに相応した責任を問われるからです。キリスト教が教える救いとは、まさに罪に対して向けられる神の怒りと裁きから、逃れる道を提供することです。
ところで、そういう意味での救いを受け入れるかどうかは、一人一人が考えるべき問題であって、誰かに強要されて受け入れるものではありません。また、救いを必要としている自分を自覚できるかどうかも、その人自身の心の問題ですから、だれもそこに立ち入ることはできません。
さて、そうして受け入れた救いの道を生涯にわたって順調にずっと歩き続けることができるのであれば、何の恐れも不安もありません。しかし、自分の弱さを知っているのは、他ならない自分自身です。自分の弱さを知っているだけに、信仰を持ち続ける決心は簡単なこととは思えず、ためらってしまうというのも本当です。しかし、聖書はたとえそういう人間であったとしても、聖霊の導きに謙虚に信頼して信仰の道に入るようにと招いています。たとえ自分が途中でつまずいてしまったとしても、悔い改めて何度でも立ち直るチャンスは与えられています。自分は救われないなどと、神に代わって自分を裁いてしまうことこそ神に対する最大の冒涜であるかもしれません。
しかし、それよりももっと深刻な問題は、信仰の道に入りながら、罪を犯してしまった仲間の信徒を発見してしまう場合です。自分が罪を犯してしまったのなら、素直に罪を告白して悔い改めることも、逆に意固地になって罪を犯し続けることも、自分の心次第です。しかし他人となれば、そうはいきません。見て見ないふりをすることは、その人に対しても神に対しても、愛にもとる態度です。しかし、そのことを面と向かって指摘することは、余程の慎重さが求められます。
そもそもそういう事態を想定してものを考えなければならないこと自体、気分が良いものではありません。そして、日曜日の朝からそんな話を聞かされるのは不愉快であるかもしれません。
初代教会で指導的な役割を担い、新約聖書におさめられている手紙のほとんどを書いたパウロという人は、ガラテヤ教会の信徒に宛てた手紙の中でこう言っています。
「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、”霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤ6:1-2)
パウロは、柔和な心で正しい道に立ち帰らせるよう、自分自身も誘惑に陥らないよう、また互いに重荷を担いあうようにと勧めています。ここには罪深く弱い人間に対する慈しみに富んだ理解が示されています。神の願いは、救われた人間が罪のゆえに再び滅びてしまうことではありません。その神の御心に合致し、その目的を見失わないように、その人と柔和に接することこそ、教会という共同体に求められていることなのです。言い換えれば、その人を切り捨てるのではなく、その人が救いの道を歩み続けることができるように、はからうことが大切なことなのです。