2012年4月22日(日) 赦すということ
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
人の過ちを赦すということは、決して簡単なことではありません。それは復讐心が人間にはあるからです。もちろん、復讐心というのは必ずしも悪いものとは言えません。悪に対して報復する気持ちがなくなってしまったのでは、正義の実現などあり得ないからです。
しかし、この復讐する思いは、コントロールすることが難しく、時には留まることを知りません。たとえば、口で言われたことを、暴力でやり返すというところまで簡単にエスカレートしてしまいがちです。そこで、古代の律法では、「目には目、歯には歯」と定めて、受けた被害と報復の間に、均衡が保たれるように、過剰な復讐を制限しました。
赦すのが難しい理由の一つは、悪を悪として憎みながら、同時に報復する気持ちを増幅させないように自制心を保たなければならないからです。悪に対する憎しみは、その悪をもたらした人への憎しみに変わりやすく、自制心がなければ、どこまでいっても、いつまでたってもその人を赦すことができなくなってしまうからです。
しかし、赦すことが難しい理由は他にもあります。それはその人の人間理解と深くかかわっています。
犯した罪のゆえに誰かを非難するということの前提には、その人が、その自分の行ったことを悪いことだと知っていることと、それを思いとどまる能力を持っているということがあります。自分がしたことの善悪が判断できない相手には、その行動を非難しようがありません。また善悪の判断ができても、自分の行動を自分の意志で思い通りに決定できるのでなければ、その人の行動を非難することができません。非難できない相手に対しては、そもそも赦す赦さないの問題ではなくなってしまいます。
相手が善悪の判断ができ、自分の意志で行動しているからこそ、その行動に対して責任を求めたり、非難したりすることができるのであって、そういう相手であるからこそ、赦すことにも意味があるのです。そこで、問題なのは、罪を犯した相手に、あるべき善悪の判断と行動の意思決定に完全さを求めてしまうことです。完全を求めてしまえば、相手を赦すことなどあり得ないことになってしまいます。もちろん、誰しも人間が完全ではないことは分かっています。だからこそ、弱さに対する憐れみと同情とが生まれてくるのです。その人間の弱さに対する理解と憐れみとが深ければ深いほど、人を赦す気持ちもまた深められていくのです。
イエス・キリストは、姦通の現場で捕らえられた女をどうすべきかと民衆から問われたときに、あなたがたの中で罪のない者が最初に石を投げつけるようにと命じました。罪のない者などいないのですから、結局は誰も石を投げつけることができずに、その女は赦されました。もちろん、イエス・キリストはその女の犯した罪を是認したわけではありません。女に対しては、もう罪を犯さないようにとはっきりとおっしゃいました。けれども、犯した罪に対しては、赦しを宣言されたのです(ヨハネ8:3-11)。
人間の弱さに対する理解や同情のないところには、罪を赦す思いなど育つことができません。自分もまた罪深い人間であることを知らないところには、ただ、厳しい裁きがあるだけです。もちろん、制裁によって社会の秩序が保たれるということもまた大切な原理であることは否定しません。しかし、宗教的な意味で人を赦すことがなければ、人間そのものが立ち行くことができなくなってしまうのです。