2012年4月15日(日) 身を低くして

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 自尊心を傷つけられるということは、誰にとっても気分の良いことではありません。しかし、その自尊心が、そもそも中身のない虚栄心にすぎないのだとすれば、その虚栄心の化けの皮を剥がされたとしても致し方のないことです。
 もちろん自尊心と虚栄心は本来、まったく違うものであるはずです。誰にでも人間としての尊厳が、神から与えられているのですから、その尊厳を重んじる気持ちは、誰にとっても大切です。また、神は一人一人を固有の存在としてお造りになったのですから、その固有な価値を大切に思う気持ちは尊ばれるべきです。そして、そういう気持ちこそ自尊心と呼ぶべきものです。それは、他人の抱く自尊心であっても、自分が抱く自尊心であっても大切にされるべきものです。その尊厳を傷つけるようなことは言ってもならないし、行なってもいけないことは当然のことです。

 しかし、虚栄心は自尊心とは違って、単なる見栄っ張りの心です。実際には自分にないものを、あたかもあるように見せかけ、そうすることで、自分に対する評価を高く見積もってもらったり、自分に対する尊敬を少しでも集めようとする心です。そういう思い自体が空しいことであることは、言うまでもありません。しかし、見栄っ張りな気持ちを抱く心理も理解できなくはありません。
 自分に対する自信がないところへ持ってきて、自尊心を傷つけられるような差別的な扱いを受ければ、誰だって次からはそんな扱いを受けないように、自分の身を守るはずです。ある人は手っ取り早く自分を過大に表現することで、屈辱的な扱いを受けないようにと自分を防御します。それがいつしか人を見栄っ張りで虚栄心の強い生き方にしてしまうのかもしれません。
 ところで、虚栄心を抱くのは、何もそうした屈折したケースばかりではありません。そもそも罪深い人間には人の上に立ちたがる思いが潜んでいます。それは人の下に立たされて、こき使われたくないという気持ちの裏返しなのかもしれません。

 あるとき、キリストの弟子たちはイエス・キリストにこう尋ねました。
 「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか。」(マタイ18:1)
 この問いは、「自分たちの中で誰が一番偉いのか」という問いに形を変えて、弟子たち同士の中でも議論されることもありました。
 そういう思いに対して、イエス・キリストは一人の子供を呼び寄せ、弟子たちの真ん中に立たせておっしゃいました。
 「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:4)
 身を低くするということは簡単なことではありません。しかし、簡単なことではないからこそ、それができる人は偉いと言えるのかもしれません。
 別の機会にイエス・キリストは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ20:26)ともおっしゃいました。身を低くするというのは、具体的には僕のように仕える者となるということに他なりません。

 虚栄心の空しさから解放される道は、自分が主人であろうとする思いを捨てて、身を低くして仕える者になることです。しかし、そういう思いになるには、結局のところ、自分の価値を正しく評価してくださる神を心から信じることが大切です。そうでなければ、いつかまた、他人に対して優位に立とうとする思いが頭をもたげ、安心しようとしてしまうのです。