2012年2月19日(日) 教会と共に歩んだ64年

 お早うございます。わたしは山田教会の門脇昭です。教会と歩んだ素晴らしさを証ししたいと思います。

 わたしは太平洋戦争中に少年時代を過ごしました。旧制中学から陸軍士官学校に進学し、その後終戦となり松山の高等農林学校に編入学をしました。その地のキリスト教会で洗礼を受け、キリスト教信者になった。その間、二人の祈りに支えられました。一人は当時の日本基督教団高知教会の長老の伯父、もう一人はその妹であるわたしの母であった。伯父はわたしが士官学校に合格して喜んでくれると思って報告に行くと、「お前は人殺しの勉強に行くのか。これを読んでみよ」と言って、聖書をわたされた。わたしはその聖書を終戦後赤鉛筆を片手に持ち、赤線をひきながら、その聖書を何回か読んでイエスを救い主と信ずるように導かれていったのであります。一方、わたしは高等農林学校の授業がつまらなくなって、家に帰って農業をしたいと母に手紙を書いて送りました。その返事に一枚の葉書が届けられました。それには二つのことが書かれていました。一つは「お前のために毎日祈っている」、そしてもう一つは「教会に行きなさい」と書かれていた。それから、わたしは日曜日の朝、夕の礼拝のみならず、祈祷会、教会学校に出席して求道をいたしました。そして19歳の夏、洗礼を受けました。わたしの教会と歩む第一歩が始まったのであります。

 ここで、松山時代の教会との歩みについて話しておくことにしましょう。その教会と関係の深い女子高校のYWCAの若き指導者、教会学校の教師となり、一方高等農林学校の校長先生の奥さん、娘さん、寄宿舎の舎監一家がクリスチャンであることが判明し、他の教派の集会にも出て、松山のYMCAの一員となり、教会と堅くむすびついた生活でありました。

 高等農林学校の授業もだんだんおもしろくなり、成績もあがり3分の一以上となって、文部省より旧制中学教員の免許状が降りました。そこでわたしの希望するキリスト教主義の学校の教師になる条件は整えられました。指導に行っていた女子高校から声もかけられ、就職するつもりでいました。ところが、母親から手紙で父親が病気で床についたので卒業したらすぐ帰って来るようにという知らせが届きました。ミションスクールの教師になる希望は閉ざされました。その時石手川の土手で神に祈りました。そして、すべてをゆだねて郷里に帰ることにしました。それから、土佐山田に帰り、改革派山田教会に転会して、朝拝、夕拝、祈祷会、教会学校とすべての集会に出て聖書を学びました。

 そして、不思議な神の摂理によって初代牧師橋本亘先生が専務理事となって、高校となる米国南長老教会の経営の清和女子高校に就職することになりました。望がかなえられました。感謝です。教会と歩むことで望がかなえられました。
 学校は清和高校から中学校を併設して清和学園となり、今日にいたっています。25歳より65歳にいたる40年間、28年は教師として、12年は理事としてかかわらしていただきました。勿論、その間深く教会と共に歩み、祈りつつ教育にたずさわり、多くの立派な卒業生に恵まれ、40年間全く悔いはなく、ただ感謝のみであります。そのほか県庁関係の研究職3年、大学校3年、小さい企業会社に5年、他の私立高校に2年、町教育委員会に5年など社会で70歳まで働きましたが、その間も教会と歩み続けてきました。
 現在83歳です。考えてみると一番長く共に歩んだのは教会で64年間になります。感謝です。
 教会の頭はイエス・キリストである。教会と歩むということはイエス様と歩むということであります。最後に聖書の言葉を読んで終わりといたします。

 「あなたがたは、主イエス・キリストを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」コロサイの信徒への手紙2章6-7節。