2012年2月5日(日) 初めに神は天地を創造された

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(創世記1:1-5)

 おはようございます。山田教会の牧田吉和です。

 聖書はその第一頁を「初めに神は天地を創造された」。単純なこの言葉をもって始めています。しかし、この単純な一つの言葉にキリスト教信仰の特色がきわめて鋭い形で表現されています。この言葉によって、「神以外のすべてのものは神ではない」、「天地のすべてのものは神によって創造されたものである」と聖書は宣言しているのです。

 わたし自身、子どもの時村の神社で友だちとよく遊びました。その神社のご神体は塀で囲まれた場所の奥の小さな社に収められていました。あるとき友だちと図って、塀を乗り越えて中に入り、恐る恐るその社の扉を開けてみました。中に入っていたのは少し大きめの石だけでした。しかし、その後で祟りがあるのではないかと恐ろしくなって家に逃げ帰りました。その恐怖はなかなか抜けず、神社の前を通るとき、いつも「ごめんなさい」と言って通ったことも覚えています。

 これは子どものいたずらですが、たとえ大人であっても神々や諸々の霊に捕らえられてしまっているということがあります。多くの人がパソコンを操る時代なのに、今も方角が悪いから家を直したとか、婚約さえも破談にしたとか、その種のことが日常茶飯事に起こっています。あるいは自分の人生が悪い星の下にあり、暗い運命の力に縛り付けられていると悩んでいる人もいます。ここには決して笑い飛ばすことのできない問題があります。

 わたし自身は中学生のときに友だちに誘われて教会に行き、はじめて聖書に触れました。聖書の第一頁を開き、「初めに神が天地を創造された」という言葉に出会った時、神がいるとすればあの村の社の石ではなく、天地を創造された神が本当の神だろうなぁと、心の中で思いました。やがて、聖書を学び、聖書の神を信じるに至ったとき、神々や諸々の霊の世界からまったく解放され、心が実にさわやかになったことを覚えています。まして、聖書の神がイエス・キリストを十字架につけるほどまでにわたしたちを愛し、またわたしを愛していてくださる方であることを知ったとき、心は平安に満たされ自由になりました。もはやおみくじを引く必要も無く、占いを立てる必要も感じなくなりました。天地を造られた神がわたしを愛し、日々導いてくださると信じることが出来たからです。

 「初めに神は天地を創造された」というこの言葉は、そのような宗教的な問題に留まるものではありません。政治的意味さえ持ちうるものなのです。この聖書が書かれた時代にも、そこでは独裁的な王が自らを神として崇めさせていました。歴史をみれば、政治的権力や権力者が自分を神のように崇めさせることが数限りなく起こりました。日本においても例外ではありませんでした。今日の盛会を見渡しても、今尚自らを神のような存在とし、絶対的服従を要求している政治権力を見出すことができるはずです。このような政治的権力の腐敗はこれからも十分に起こりうることです。

 「初めに神は天地を創造された」。この言葉は、どんな権力者も神とはなり得ないのだという宣言を意味しています。政治権力だけではありません。この言葉は、神のように振舞おうとするあらゆるもの、それが人間であろうと、社会であろうと、組織であろうと、文化であろうと、どんなものであろうと、それらすべてに対する「戦いの宣言」でもあるのです。

 このようにキリスト教信仰は、わたしたちを偶像や迷信、諸々の霊力や運命の鎖から解放する力を持つものです。同時に、自らを神のように見せ、人間を隷属させる政治権力やあらゆる形態の悪しき力に対する戦いのエネルギーを与えるものなのです。