2012年1月22日(日) 恵み
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
先日、仲の良い友達とキリスト教の話をしておりましたら、話題が「恵み」の話になりました。クリスチャンではないその友人は、教会でよく使われる「恵み」という言葉がどうもよくわからないというのです。「はて、何のことだろう」と、思っていると、こういうことでした。
その友人が言うには、キリスト教では何でもかんでも「恵み」だと考えているらしいのです。「自然の恵み」や「天の恵み」というのもわからなくはないのだそうですが、自分で働いて得た報酬まで、神の恵みと思うのは何か違うだろう、ということでした。
確かに報酬と恵みとは違うものです。報酬は働きに対して当然支払われるものですから、恩恵として与えられるものではありません。働く人は報酬に対して当然の権利を主張できるものです。
しかし、クリスチャンが働きの報酬に対してまで、恵みと感じるには十分な理由があります。というのは、働くことができるというためには、もちろん健康が備えられていなければなりません。途中で病気や事故に遭ってしまえば、働きたいと思っても働くことはできなくなります。そして厄介なことに、病気や事故は自分の注意だけでは防ぎきれるものではありません。健康が備えられて働けるというのは、当たり前のようで、しかし、奇跡みたいなものです。ですから、ひと月の間、健康が守られ、仕事ができたということは、神の恵みと感じるのです。
また、働くためには、その働きに必要な能力がなければなりません。そうした能力は自分で開発して得る部分もありますが、ほとんどは人間として先天的に備えられているものです。最初から与えられている能力があって初めて働くことができるのですから、働きの報酬に対しても恵みを感じるのです。
自分が今生きて働けるのは、神の恵みだと考えれば、働いて得たものも当然、その恵みの結果なのです。そのような神の寛大な恵みの中に生かされている自分に気がつくときに、他者に対してもっと寛大になる気持ちも育ってくるように思います。
能力主義や実力主義の競争社会も、世の中を発展させる大切な原理であることは理解できますが、しかし、それだけでは人間を高慢にさせ、人と人との関係をぎすぎすしたものにしてしまいます。恵みによって自分が生かされていると思えばこそ、困難の中にある人たちを見て、自分に与えられた恵みをその人たちと分かち合いたいと思う気持ちも生まれてくるように思います。
ところで、クリスチャンが神の恵みを感じるのは、日常生活の中ばかりではありません。自分が神の救いにあずかっているということの中に、もっとも強く神の恵みを感じています。神の与えてくださる救いこそ、まったくの恵みによるものだからです。救いは人間の努力の結果ではなく、努力しても到達することができない人間に神から無償であたえられる恵みだからです。しかし、この点こそ、もっとも理解しがたい「恵み」なのかも知れません。確かに、タダより怖いものはないと言われる世の中です。この世の中では、タダでもらえるものにはろくなものがありません。しかし、救いは、タダでなければあまりにも高価すぎて、手に入れることはできないのです。そうであればこそ、救いは恵みとして受け止めることしかできないのです。