2012年1月15日(日) 賜物

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。

 先日、仲の良い友達とキリスト教会の話をしておりましたら、話題が「賜物」の話になりました。クリスチャンではないその友人は、教会でよく使われる「賜物」という言葉がどうもよくわからないというのです。「はて、何のことだろう」と、こっちの方が返って解せない気持ちになりました。

 その友人が言うには、「賜物」といえば「たまわったもの」、つまり「いただきもの」のことだろう、というのです。あるいは「努力の賜物」と言えば、努力した良い結果のことで、「賜物」という言葉には、「いただきもの」という意味か、「結果として得た良いこと」という意味以外にはない、というのです。ところが、キリスト教会では、この「賜物」という言葉を、ほとんど「才能」という意味でしか使わないのは、何かしっくりこなくておかしいというのです。

 なるほど、確かにキリスト教会では「あなたにはリーダーとしての賜物がある」とか「あなたには人を和ませる賜物がある」などという言い方をよく耳にします。そう言う場合、一般的な言い方をすれば、「あなたにはリーダーとしての才能がある」とか「あなたには人を和ませる才能がある」というのでしょう。それをわざわざ「賜物がある」と表現するのは、その友人には奇異な表現と感じられたのでしょう。
 自分の中では少しもおかしいとは思わなかった表現が普通の人には奇異な印象を与えると言われると、言い方を改めた方がよいのかもしれない、と思ってしまいます。しかし、やはりこの場合には「才能」ではなく「賜物」という言い方にこだわる理由があります。もし、百歩譲って「才能」という言葉を使うのであれば「天賦の才能」という言い方がふさわしいように思います。しかし、それではあまりにもいかめしく感じられます。
 「賜物」という言葉は、確かに「いただきもの」という意味ですが、教会では「才能」もまた「神が賜ったもの」、つまり「神からのいただきもの」と考えられているのです。才能が神からのいただきものである、という考えには、結果として三つのことが含まれています。

 その一つは、神から与えられたものであるということは、他人の才能を羨むことも、また、自分の才能を自慢することも、そのどちらもふさわしくないということです。それぞれ与えられた才能は、その人にもっともふさわしいという神のお考えなのですから、与えられた才能をしっかりと受け止めることが大切なのです。

 才能が神からのいただきものである、ということは、また、その才能をおろそかにしてはならない、ということを含んでいます。才能の持ち腐れではいけないのです。いただいた才能が伸びるようにと磨きをかけ、その才能を発揮することで、いただきものの才能を生かしていくことができるのです。

 そして、三つ目のこととして、神はそれぞれに異なった才能をおあたえになったのですから、その才能は全体の益のために使ってこそ意味があるということです。神がお与えになった才能は、決してその人ひとりが豊かになるために与えられたわけではありません。もしそうであるとすれば、一人一人が違う才能をもっていることは、不公平でもあるし、また不十分でもあります。しかし、異なった多様な才能を自分のためだけではなく、他の人のためにも用いて、互いに仕えあうときに、全体が豊かになるようにと、神は一人一人に異なった才能をお与えになったのです。神はそのような仕方で人間社会全体を豊かに祝福してくださいます。

 そういうわけで、教会では「才能」を神からの「賜物」と理解し、あえて「賜物」という言葉を用いているのです。