2012年1月8日(日) 神の導きを信じる生き方
おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
キリスト教会でよく耳にする言葉に「神の導き」という言葉があります。今時そんなことを信じているとは、少し時代にそぐわないように思われるかもしれません。けれども、キリスト者は大真面目で「神の導き」を信じています。
もっとも、「神の導き」を信じると言っても、行き当たりばったりの無責任な生き方を奨励しているわけではありません。神の導きを信じる生き方と行き当たりばったりの生き方とは違います。また、成り行き任せのいい加減な生き方とも違います。無謀な計画を立てて、何も準備をしないで、ただ結果を待つような生き方を指して、「神の導きを信じる」などとは言いません。
他の人たちと同じように、キリスト教を信じる人たちも物事の計画を立て、その計画を実行するために様々な準備をします。しかし、まさにそのことの中に神の導きを信じ、期待しているのです。
確かに傍目から見れば、していることは何も変わらないかもしれません。けれども、同じことをしているようで、心の中は違っています。
では、心の中で神の導きを信じる生き方は、どこがどう違うのでしょうか。
一つには、神の導きを信じる生き方には、自分の立てた計画が絶対ではないと思う謙虚さと心の余裕があります。もちろん、それは最初から半分あきらめた気持ちで何事にも当たるという意味ではありません。自分の計画が絶対ではないと思う謙虚さは、その計画が実現しなかったときに、それを自分の足りなさを考える機会と思い、それを配慮に満ちた神の導きと捉えます。その計画が自分の都合を優先させすぎていたのではないか、と謙虚に反省する心の余裕を持つことができます。自分の計画の足りなさを棚に上げて、実現できなかったことを他人のせいにしてしまう驕った気持ちから自分を解放してくれます。
また反対に、絶対ではない自分の計画が実現した時には、それを神の特別な導きと考え、いっそう謙虚な気持ちになることができます。
さらに、神の導きを信じる生き方は、自分に対しても他人に対しても、結論を急がない心の余裕を生み出します。人間は思い通りに事が運ばなかったり、不幸な場面に出遭うと、その一場面だけを切り取って、人生の全体を悪い方に考え、気持ちがいっぱいいっぱいになって人生をのろったり諦めたり見限ったりしがちです。
しかし、神の導きは、人生全体に及ぶのですから、しかも、人生を導かれる神は最善へと人生を導いてくださるのですから、人生の途中で自分や他人の人生をマイナスに結論づけてしまわない心の余裕を生みだすのです。
こうして、神の導きを信じて生きるということは、人生全体について、自分にも他人にも忍耐強く待ち望む姿勢を身につけさせてくれるのです。
人生がうまくいくときには神の導きであると信じて、謙虚にその喜びを分かち合い、人生がうまくいかないときにも、その先にある神の善意の表れを信じ歩んでいくことができるとすれば、自分の人生を何倍にも楽しむことができるのではないでしょうか。
自分の人生を自分の掌に握りしめて、どうにもならない気持ちで過ごしているよりは、その人生を導いてくださる神にお任せして、心を安らかに過ごすほうが、どれほど余裕をもって人生を楽しむことができることでしょうか。