2011年12月4日(日) 天国についての三つの問い
おはようございます。南与力町教会で客員として教会生活をさせていただいている、末包厚喜です。
ルカによる福音書の16章に有名な「金持ちとラザロ」の物語があります。ラザロという不幸な生活を送った人が死んで、天国に行き、宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行ってもらいました。一方、生前毎日ぜいたくに遊び暮らしていたお金持ちは、地獄に送られたという話です。アブラハムは、イスラエルの人たちにとっては父祖として尊敬されている人です。
このお金持ちは地獄で苦しみながら、はるかかなたにアブラハムとラザロが宴席にいるのが見えたのです。そして、アブラハムに、「わたしを憐れんでください。ラザロを寄こして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」とお願いします。また、「自分には兄弟が5人いますが、このような苦しいところに来ることのないように、自分の父親にラザロを遣わしてください」と願います。しかし、アブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるが良い」と答えます。そのお金持ちは、「もし、死んだ者の中から誰かが兄弟たちのところに行けば、悔い改めるでしょう」と言います。アブラハムの答えは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言うものでした。ここで言われている「モーセと預言者」は聖書の教えのことです。
わたしたちの天国についての疑問は、大きく三つに分けることができるでしょう。一つは、天国は本当にあるのかという疑問です。二つ目は、天国とはどのようなところかというものです。三つ目は、どのようにすれば、天国に行くことができるのかというものだと思います。 聖書は、このイエス様の「金持ちとラザロ」の物語を通して、わたしたちが持つこのような疑問に端的に答えています。もちろん、聖書には、この他にも天国についての多くの記述があります。それは、わたしたちが天国についての正しい知識を得ることと、わたしたちの救いのために書かれているのです。
なぜ、わたしたちは「天国」についての思いを抱くのでしょう。旧約聖書の「コヘレトの言葉」の3章11節に、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」と書かれています。「永遠を思う心」は、この世の生を全うしたあと、わたしたちはどのようになるのか、という気持ちと深く結びついています。天国への思いは、人が生まれたときから与えられているものだと言えましょう。
天国がどのようなところかという疑問については、この金持ちとラザロの物語でも明確に書かれていますが、わたしたちが一般にイメージするところに近いのではないでしょうか。
三つ目のどのようにしたら天国に行けるのかという問いは、聖書の中心的なメッセージの一つです。心からの悔い改めと、イエス様を救い主として信じる信仰が天国を保証しています。キリスト教会は一貫して、このことを語ってきました。これこそが福音、すなわち、喜びのメッセージです。
これら三つの問いを考えてみて、最後に知らなければならないのは、この「金持ちとラザロ」のお話にあるように、「わたしたちとお前たちの間には大きな溝があって、ここからお前たちのところへ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えてくることもできない」ということです。明確な隔てがあるということを知らなければなりません。だから、天国についての正しい理解と素直な信仰が必要となります。
ヘブライ人への手紙の11章1節をお読みして終わりたいと思います。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。