2011年11月6日(日) 富を積むならどこへ
おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。
イエス・キリストは言いました。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイによる福音書6章19〜21節)
聖書では富の使い方を、様々な言い方で語っています。苦労して得た富は安全な場所に保管したいものです。富の価値が失われたり減ったりしてしまう場所に、誰も好きこのんで置こうとはしないでしょう。富はどこに蓄えれば安全なのか、聖書は「富は、天に積みなさい」と言っています。
そもそもこの意味は、地上に富を蓄えることのはかなさです。これぞ大丈夫という仕方で富や財産を保管しても、それで安心しきっていると思わぬ仕方で失ってしまうことがある。地上の富とはそういうものだというわけです。いつの間にか、あるいは突然、価値がなくなったり、盗まれてしまったりする。何か災害で失われることもある。失われてから、「あぁ、失われるんだったら、天に積んでおけばよかった」、と思っても遅いわけです。
わたし自身、富といわれるほどのものを持っているつもりはありませんが、これだけ手元にあれば大丈夫、と思えばそれは富になります。
わたしの経験を一つお話しします。わたしは大学生の時に高価で高性能なノートパソコンを手に入れました。それは大学での研究で十分耐えられるように選んだ高価なパソコンで、これがあれば当分は大丈夫だと安心しきっていました。神を畏れるべき思いが少しずつ麻痺し、高性能なパソコンがあれば今の生活も研究も大丈夫と思っていたようです。パソコンを使いこなし、周りの知人は私を頼りにしていろんな相談をしに集まってきました。楽しく過ごしていました。
ところが突然、その時が来ました。ある夜、夕食に出かけて食べ終えてから戻ってくると、パソコンの影も形もありません。盗まれてしまいました。あったはずの場所を見ながら呆然として力が抜けていきました。事態を飲み込めません。そして、日常生活ができなくなったかのような錯覚に陥り、すっかり落ち込んでしまいました。警察に被害届を出しましたが、結局、パソコンは出てきませんでした。
その後、なぜこんなことが起こったのか神に祈りました。祈って5日ほど経った時、大切なことにやっと気付きました。祈りの中で諭されたことは、わたしの心がパソコンに奪われており、もっと大切なことへ心を向けるべきだと、そのままパソコンに心を奪われていたら、わたし自身が大変なことになっていたかもしれない、ということでした。「あぁ、わたしがそうならないように神がわたしの手から取り去ったんだなあ」と確信し、とたんに元気が沸いてきて、盗まれたことにも感謝しました。神に守られている思いで満たされたのです。知人に「盗まれてよかったよ。」と言ったら、「もう、そこまでいったのか?」と、一週間足らずでそういう気持ちになれたことに驚いていました。
聖書は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言っています。自分の心があるべきところにあるのかどうか。確かめてみるのはいかがでしょうか。富は天に積みなさいと、イエス・キリストは教えて下さっています。