2011年10月16日(日) 委ねるということ
おはようございます。山下正雄です。
キリスト教では「神に委ねる」という言葉をよく耳にします。とくに思い患いは神に委ねて、心安らかでいるようにと勧められます。きょうは、この「神に委ねる」ということについてご一緒に考えてみたいと思います。
「神に委ねる」という言葉は、なんとなく分かるようで、しかし、何をどうすることなのか、具体的なイメージのわきにくい言葉ではないかと思います。クリスチャン同志、お互いよく使う言葉ですが、しかし、教会に悩みを抱えながら初めてやってきた人が、「何もかも神さまにお委ねください」といきなり言われても、戸惑うばかりではないかと思います。
実は、クリスチャンであっても、「神に委ねる」とはどういうことなのか、なかなか上手に答えられないのではないかと思います。しかし、だからと言って、そのクリスチャンが「神に委ねる」ことを本当はしたことがない、というのではないでしょう。深く考えるまでもなく身についていることだからこそ、改めて尋ねられるとうまく答えることができない、ということでしょう。日常的なことほど、説明するのが難しいということはよくあることです。
ちょっと話は横道にそれますが、以前見たテレビ番組で、交通事故で脳に損傷を負って、記憶がなくなってしまった人の話が取り上げられていました。今まで日常的にしていた「ものを食べる」ということでさえ、その人にとってとてつもなく難しく感じたそうです。まず、お皿やお箸は食べないで、食べ物だけを口に入れる、ということが理解できなかったそうです。わたしたちにとっては、こんなことは当たり前すぎることですが、しかし、「食べる」とは何をどうすることかと、改めて問われたら、その説明はとてつもなく難しくなってしまうように思います。
さて、「神に委ねる」ということを説明するのが難しいのは、それが日常的なことであるからということもそうなのですが、委ねることが理屈ではない、ということも、説明が難しい理由です。
たとえば、困った事態に直面した幼い子供が、自分では何もできなくて大泣きしているとします。そこへその子のお母さんがやってきて、「心配しなくても大丈夫。お母さんがいるから任せておきさい」と一言言ったらどうでしょう。その一言を聞いた子供がピタッと泣きやんでしまう、という光景はよく目にします。
では、この子供はいったい何をどうしたというのでしょうか。とにかくお母さんの言葉を信じて、お母さんに何もかも委ねた、ということなのでしょう。しかし、何をどうしたということを理屈で説明しようとしたら、これはとてつもなく難しい話になってしまいます。
「神に委ねる」とクリスチャンが言う時の「委ねる」というのは、これに近いところがあるように思います。何をどうするというよりも、とにかく一番信頼できるお方を信頼して、頼りきるということにほかなりません。
ところが、大人の世界に事柄をあてはめようとすると、途端に話が難しくなってしまいます。クリスチャンには努力とか向上心と言った考えはないのか、暢気なものだ、と皮肉を言われてしまいそうです。
確かに「神に委ねる」というのは、何の努力も働きもしないで、ただ棚から牡丹餅のように、良い結果が出るのを待つだけのことではありません。
けれども、ことと場合によっては、そうせざるを得ないことだってあるはずです。たとえば全身麻酔の手術を受けなければならない人は、手術台の上で自分で何かをするわけではありません。もはや執刀する医者にすべてを任せるほかはありません。同じように、思い悩んだからと言って人間に変えることのできない事柄は、神にお任せするよりほかはないのです。