2011年10月9日(日) 母の最も望んだもの
お早うございます。南与力町教会の丸岡洋希と申します。
わたしの母は58歳で突然亡くなりました。「早過ぎたね」とよく言われますが、長男のわたしから見ると、母は他の方より25年近くも長生きしたと思っています。58歳で亡くなったのに25年も長生きしたと聞かれたみなさんは何のことだと不思議に思われるでしょう。
実は、母は33歳で死の宣告を受けました。手術を受けたのですが、手の施しようが無いと医師から覚悟するよう言い渡されたようです。わたしが3歳半のときです。母の病棟から見た、昭和天皇を歓迎する日の丸旗一色の安芸の本町の光景がセピア色で記憶に残っています。これは昭和25年3月のことだったのですね。
死の宣告を受けた母はいろんなことを考えたでしょう。不思議なことに当時の心境を本人から詳しく聴いた覚えがありません。いろいろと推測いたしますが、死への恐怖や別離への悲しみは大きかったでしょう。三人の子どもの将来、父の労苦が気がかりだったでしょう。もちろん、自らの病や癒されることも祈り求めたでしょう。
しかし、その後の母の生き方から鑑みますと、母が何よりも心に留め、祈り願ったことはもっと別なものであったと思います。
若くして愛する家族を残したまま死という絶望のふちに立たされたとき、無くてはならない何よりも大切なことを母は切に願い求めたと思います。それは健康なのか、子どもたちの成長か、生きることへの切望か、平和か。最も望んだものは果たして何だったのでしょうか。
聖書のマタイ福音書16章にそのヒントの一つが隠されていると思います。その箇所でイエスは人々に次のように語りかけます。
「人は、たとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」
「自分自身の欲に溺れ死の絶望に陥らないよう、わたしにしたがって自分の命を救いなさい」と教えられました。
わたしたちは自分の目標や生き甲斐を求め努力し、また、楽しんでいますが、それは大切なことです。しかしあまりにもそればかりに心を奪われ、だれもが何時かは直面し、逃れることの出来ない人生で最もやっかいな「死の問題」を棚上げしてしまっているのではないでしょうか。
わたしが最初に母は25年も長生きしたという意味は、単に奇跡的に回復し、その後幸せに過ごせたということではありません。実は33歳で死を宣告されたとき、母は人生の一番厄介な「死の問題」を解決してしまったのです。死の問題を解決したまま25年生きるということは、素晴らしい人生です。
佐藤慎二先生の説教集の言葉をお借りすれば、「わたしたちはオギャーと生まれたときから死と手を取り合って生きています。死におんぶされたままで、幸せや成功を求めて一生懸命人生を歩んでいるが、やがて或る日、死におんぶされたまま命を失ってしまう」。
わたしたちは何のために命を与えられ、何のために生活し、どうして空しく死ななければならないのでしょうか。死におんぶされずに死の淵に沈まない生き方はあるのでしょうか。残念ながら、わたしたちは自分の力では死から逃れることはできません。それはイエス・キリストの命の救いの業に拠り頼むしかありません。そのことを佐藤慎二先生は「イエス・キリストにオンブされ、永遠の命に預かる者となりなさい」と表現されています。
母は、自分自身の人生が死におんぶされたまま終わってはいけないと考えました。33歳に実際、死に直面したとき「死におんぶされていたのを振り払い、キリストの救いの招きに従い、イエス・キリストにおんぶしていただいた」のです。そのとき本当の安堵と希望をいただいたのでしょう。そして、愛する子どもたちや孫たちにも死におんぶされたまま空しい人生を歩まずに、イエス・キリストにおんぶしていただく者となって、永遠の命に預かる者であって欲しいと何よりも切に祈り願ったのでしょう。
死は突然でないとしても、確実にやってきます。共に、イエス・キリストにおんぶされ、揺るがないまことの希望を持って日々歩めれば幸いではないでしょうか。