2011年10月2日(日) 人生の大きな転機
人生、何とかなるだろと、気楽な生活を送っていたのんき者で、苦労知らずのわたしにとって、大きな転機となった青春時代の出来事についてお話させていただきます。高校卒業後、東京で浪人生活を始めた昭和40年頃のことです。
にわか勉強では予備校の授業についていくのも大変でした。夏、秋と多少の頑張りでいくらか実力テストの成績も上がりだし、これなら何とかなるぞと思い始めた頃、正に突然なんともならない事態が起こりました。予備校に通うある冬の朝、通勤ラッシュの山手線で何の予兆も無く突然体調に異変が起きました。突発的に脈拍が異状に速くなり、激しい動悸に襲われ、呼吸困難でやっとの思いで次の駅のベンチで横たわりました。
その日を境に乗り物に乗ると激しい脈拍と動悸に悩まされました。脈拍は200前後打ち、息苦しさと吐き気に襲われました。病院ではどこも悪くないとのことでした。実際おかしなもので、目的地に向かうときにはひどい苦しさに見舞われ、激しい動悸に悩まされても下宿の部屋に帰ったとたん、脈拍も落ち着くというやっかいなものでした。結局、その症状は3、4年ほど続き、段々と時が癒してくれたのですが、わたしにとって苦い経験となりました。
多くの点で恵まれ何不自由もなく育ったわたしは、「いろいろあっても、人生そのうち何とかなるだろう」という楽観主義者でしたが、この体験は自分ではどうにもならないことの重みを思い知らされました。出かけることが恐怖ですから、授業やゼミ、風呂屋に行くのも難儀でした。友人との楽しい交わりからも遠ざかり、イベントのまとめ役であったわたしが団体行動について行けなくなり、孤独感や不安に心がふさがれそうになりました。しかしながら、実はこの経験はわたしにとって大変プラスとなり、人生の考え方の大きな転機となりました。人間模様や、身の回りの様々な現象を心静かに見つめ、その本質を見極めようと努めることの大切さを教えられたのです。
特に、わたしたちの命がどのように生まれ、どこに行くのかを静かに考えさせられました。挫折感と自己嫌悪に陥ろうとしていたわたしに慰めと勇気を与えてくれたのは、イエス・キリストのみ言葉でした。マタイ福音書6章にございますが、イエスは次のように語られます。
「日々の煩いごとで思い悩み、心全体を奪われてはならない。ああしたい、こうしたい、明日はどうしようと思い悩んでも、あなたの寿命をわずかでものばすことはできないではないか」。
「しかし、空の鳥を良く見てみなさい。種もまかず、刈り入れもせず、蔵にもおさめないが、神は、鳥を養ってくださるし、野の花でさえあのように美しく咲かせている。ましてや神はあなた方を価値あるものとして命を与え、愛し、育んでくださっているのだから、何よりも先ず、偉大な神の業と知恵と大きな愛によって、あなたの命が支えられている真理を心に留めなさい」。
人間の存在の本質を教えてくださるイエス・キリストのこのみ言葉を通して、わたしは改めて楽天家に戻されました。ただ、以前と決定的に違ったのは、それまでのわたしは自分勝手で、自分の都合に合わせ真理からかけ離れた気休めだけの楽天家でした。しかし、貴重な体験を通し、イエス・キリストが教えてくださった教えは、「神の偉大な力とイエス・キリストの深い愛がわたしたちの存在の原点であり、わたしたちの日々の生活にその愛が脈々と注がれ続けられている」という平安を覚える、本当の意味の自由を教えられたのです。
あのときから40年経った今も、様々なかたちで思い悩みは尽きません。日々の煩いに心は惑わされますが、「神の力と、イエス・キリストの愛の支えを」覚えるとき、その日の安らぎと明日への新たな希望が与えられます。どうか、この週もみなさまの生活が祝福され、安らぎが与えられますように。