2011年9月25日(日) 小さな贈り物
おはようございます。南与力町教会の山村早苗です。
昨年のバンクーバーオリンピックを覚えていらっしゃいますか。わたしは怪我やスランプを乗り越えてメダルを獲得したフィギアスケートの選手たちのすばらしい演技に大変感動しました。長くて厳しいトレーニングの日々を積み上げて手にしたメダルは、言葉にならないほどの喜びを選手に与えてくれたことでしょうね。
スポーツ選手のようにハードなトレーニングやスランプという苦しみは私の日常生活にはありませんが、それでも毎日たくさんの仕事に追われていると、オリンピック選手のように何かを成し遂げるということがないまま、あっという間に一生が終わってしまうのではないかという気がすることがあります。けれども、たとえ金メダリストであってもその日常は地道な努力の積み重ねです。優勝の瞬間は人生の中では一瞬です。だから幸せな人生だったと最後の日に思えるようになるためには、その地道な一日一日がどれほど幸せであったかということに左右されると思いませんか。
わたしは、今でも忘れない祖母との暖かい思い出があります。多分わたしが4歳ぐらいの頃のことです。家族で大阪から電車と船に乗って、父の実家である高松の祖母の家に遊びに出かけたときのことです。当時、祖母の家のトイレはまだ水洗ではありませんでした。慣れないわたしにはそのトイレがとても怖かったのです。たまたま両親がいないときに一人でトイレに入って、うっかり右のスリッパを落としてしまいました。真っ暗な便器の穴の下はとても深くて、幼いわたしは絶望的な気持ちになりました。「どうしよう・・」。祖母の家には伯父さん夫婦と従兄弟たちが一緒に暮らしていて、今思えばみんな優しい人たちだから恐れることはなかったのですが、当時はこの失敗を誰に言おうかと一人、トイレの中で困っていました。
そのとき、本能的に一番優しそうな祖母の顔が思い浮かび、トイレから出て祖母を捜して、打ち明けました。おそらく、わたしは相当深刻な顔をしていたでしょう、今ならたかがスリッパですが、子どもには一大事でした。孫が青ざめて打ち明けたのを見た祖母は、やさしくほほえんで「おばあちゃんが落としたことにしてあげるから」と言ってくれました。そして実際にその直後、従兄弟がトイレに行き、スリッパが片方なくなっていると言ってトイレから慌てて出てきたとき、「わたしがさっき落としたんや」と祖母が伯母さんに言っているのが聞こえました。
本当にわたしの代わりに落としたと言ってくれたのでした。孫の心中を察してさりげない祖母の優しさでした。祖母自身はそんなことはすぐに忘れてしまったかも知れませんが、わたしは今まで忘れることはありませんでした。大人になって考えると、そういう小さなことにもみんなから慕われた祖母の優しさが現れていたのだろうなあと思います。
小さいけれどあたたかな思い出というのは人の心にずっと残ります。ですからわたしたちの日常の日々にも、もしちいさなあたたかい愛があればとても幸せになり、感謝の気持ちで満たされると思うのです。
聖書のマタイによる福音書の22章の中に、ファリサイ派の人がイエスを試そうとして「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねる場面があります。イエスさまは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃいました。
聖書で教えられていることの多くは「愛」がキーワードになっています。小さな愛を一つでもわたしたちの近くにいる人にプレゼントする日々を送って生きたいですね。