2011年9月11日(日) 善い行い

 おはようございます。山下正雄です。

 善い行いをしたいと思う気持ちは、いったいどこから来るのでしょうか。もちろん、すべての人が善いことをしたいと思っているわけではないでしょう。しかし、悪を行っている人が、悪だけを行いたいと願っているわけでもないはずです。善いことを行いたいと思う気持ちがどこかにあるはずです。また、実際に善い行いができるかできないかは別として、心のどこかに善い行いをしたいという思い、善い行いをするべきだという思いがあるものです。そうした善への思いというのは、どこからどうして生じるものなのでしょう。

 自分自身を振り返ってみると、善い行いへの思いというものは、道徳心というよりも宗教心に根ざしているように思います。宗教心というと大げさですが、自分が善い行いについて最初に自覚したのは、宗教的なことと結びついてでした。

 それは小さい子供のころの思い出ですが、悪いことをすれば地獄に、善いことをすれば天国に行くということを、どこかで習いおぼえてきたようです。子供の頃のこのとですから、善い行いというのは地獄には行きたくないという恐怖心と深く結び付いていました。まったくお粗末な話ですが、これが自分の中で最初に善い行いを考えるきっかけだったのです。

 しかし、そうした駆り立てられるような思いだけから、善い行いについて考えていたかというと、そればかりでもありませんでした。善いことをすると喜んでもらえる、そして、それが自分にとって心地よい気持ちになるからという理由で、何か善いことをしたい、という気持ちが芽生えてきたのも事実です。その場合の善い行いというのは、結局は誰かを喜ばせたい、喜んでもらいたいということにすぎなかったのかもしれません。そこでいう「誰か」というのは、最初は母親であったり、学校の先生であったりしたかもしれません。しかし、いつしか人間ではない存在、目には見えない存在に自分を評価してもらいたいという思いにつながっていったように思います。そう言う意味でやはり善い行いへの思いは宗教心と結びついていたように思います。

 では、キリスト教を信じるようになってからはどうかというと、裁きに対する恐怖心から何か善いことをしなければ、という思いからは完全に解放されました。なぜなら、キリスト教では、わたしたちの行いによって裁かれるべきことはすべてキリストがその裁きをご自身の身に引き受けてくださったからです。

 それなら、神を喜ばせるために善い行いをしたいと思うのかというと、それともちょっと違うような気がします。神はわたしたちを喜ばせることがおできになりますが、わたしたち人間が神を喜ばせることなど、及びもつかないことだからです。ただ、人間的な言い方をすれば、神に喜ばれる人間でありたいという気持ちは確かにあります。

 しかし、それよりももっと強い思いは、わたしをこのように救ってくださった神のお心に少しでもそいたいという気持ちです。何事をするにも、それが神を愛し、人を愛することになるのかどうかということを思うようになりました。もちろん、思ったことを実行に移せるかどうかは別の問題です。ただ、善い行いについて考え、それを実行に移させようとする心の動きに変化が出てきたということです。

 きょう、わたしがこんなことをお話するのは、自分を自慢するためではありません。自慢どころか、わたし自身は今も足りないところの多い人間です。

 わたしが伝えたいことはこう言うことです。人間が善い行いについて考えるのは、宗教心と切り離せないということです。そして、どんな宗教を信じるかで、その人の善き行いに対する思いと取り組みも大きく変わってきてしまうということです。ですから、宗教心を大切に育てるところには善い行いも育つのです。