2011年9月4日(日) 宗教心

 おはようございます。山下正雄です。

 現代という時代は、人々が宗教に対して関心の薄い時代なのでしょうか。それとも宗教に対して特別な嫌悪感を抱いている時代なのでしょうか。あるいは、今までと変わりなく宗教を持つ人もいれば、持たない人もいる、ただそれだけのことなのでしょうか。

 この質問に対する答えは、その人がどんな宗教のことを思い浮かべ、どんな社会現象のことを念頭において語るかによって、その描かれる状況はずいぶん違ったものになるように思います。

 たとえば、ヨーロッパに旅行に行って、キリスト教会の礼拝に集まった人たちを見て、思いのほか少ないことに驚く日本人もいるかもしれません。あるいは逆に、日本を訪れた外国人がほとんどの日本人が仏教徒であると聞かされている割には、仏教について何も知らない日本人を見て、不思議に思うかもしれません。こうした人たちにとっては、欧米社会にしろ日本にしろ、現代は宗教的な関心の薄い時代だと見えるかもしれません。

 あるいは無差別テロを起こす熱狂的な宗教や、詐欺まがいの霊感商法で人々をだましたり、脅しと洗脳で信徒を獲得する新興宗教を見て、宗教という言葉を耳にするだけで嫌悪感で心を閉ざしたくなる人もいることでしょう。こう言う人たちにとっては、現代は宗教に対する嫌悪の時代だと映るに違いありません。

 けれども、そうした消極的で否定的な評価にもかかわらず、宗教そのものが世の中から消え去っていないというのも事実です。そして、これから先何年たっても、宗教というものが姿を消してしまう時代はこないだろうとわたしは思っています。というのは、宗教心こそ人間の本質だとわたしは考えているからです。

 こんなことを言うと、たちどころに反論が返って来るかもしれません。むしろ人間の本質は、何ものにも支配されない独立自主の生き方にこそあるのだと言われてしまいそうです。

 確かに、誰からも支配されない自由な生き方こそ人間らしいと言えるかもしれません。しかし、誰からも支配されたくないと思っていながら、誰かを支配せずにいられないのが人間です。親は子供を、強い者は弱い者を、一つの民族はほかの民族を、といった具合です。

 あるいは逆に、何ものにも支配されたくないと思いながら、自分ではどうすることもできない物欲の支配に自分を置いてしまっているのが人間です。

 こうなってくると、もはや自分で自分を律することができなくなってしまいます。

 自分を自分で律するという意味での自律は、畏れるものを持たないでは実現できません。「おそれる」というのは、恐怖心を抱くということではありません。自分よりも高いものの存在の前でおそれつつしむことです。この畏敬の念、畏れる心こそ宗教心の中心です。もし、人間がこの宗教心を失い、何ものをも畏れないものになってしまったら、もはやブレーキになるものがなにもなくなってしまいます。

 畏れる心を持つときに、人は自分が絶対ではないことに気がつきます。自分が絶対ではないことに気がつくときに、自分の支配下に何もかも置こうとするばかげた思いから解放されます。このとき初めて、自分の自由と独立ではなく、他者をも含めた自由と独立について考えが及ぶようになるのです。

 そして、畏れる心を持つときに、自分に足りないものがあったとしても、今与えられている恵みの大きさに満ち足りた思いになることができます。

 聖書の言葉に「主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言9:10)とあります。この主を畏れる心こそが、人間にほんとうの生きる道を見出させることができるのです。