2011年7月10日(日) 個の尊重よりも大切なもの

 おはようございます。南与力町教会の山村貴司です。

 近・現代社会においては、個の尊重が謳われて久しくなります。教育においても一人ひとりの個性と特質が重んじられ、歌の世界でもスマップの「世界に一つだけの花」にあるように、「ナンバーワンにならなくても…もともと特別なオンリーワン…」と、個性と特質の大切さが歌われています。確かに個の尊重ということは大切なことです。けれども、その弊害なのでしょうか、一方で現代社会では、個人化や個別化が進んで、非社会的な生き方をする者が増えてきたように私は思います。

 以前テレビで、ある現代の若者たちの日常を追った番組がありました。そこでは、若者たちが昼間から商店街にたむろし、座り込み、ビールやタバコを飲み、大声を上げて歌や踊りを楽しんでいました。そこを通りがかった人たちは遠巻きに、眉をしかめて通り過ぎていました。しかし、一方の彼らはそんな周囲のことなど全く気にもとめず、ひたすら自分たちの楽しみに没頭していました。彼らの中にある根源的な問題は一体何なんでしょうか。それは彼らの持っている価値観ではないかと思います。それは、「自分さえ良ければいい、自分さえ楽しければいい」という自己中心的な価値観です。今の社会は総じて、この自分中心の生き方が謳歌しているのではないでしょうか。

 ここに、それと反対の生き方をした人がいます。数年前、天に召されたマザーテレサという教会の姉妹です。この人の生き方は自分だけを楽しませ、喜ばせようとする生き方ではありませんでした。彼女は、隣人の喜ぶ姿を追い求め、隣人の楽しむ姿を追い求めました。

 彼女は1948年、インドのカルカッタのスラム街に入って生活をしました。そこには、路地裏で伝染病にかかり、倒れている人たちがたくさんいました。彼女は彼らを古い石造りの家に運びいれ、熱心に介護しました。そして、彼女は人々に忌み嫌われ、誰からも相手にされない彼らの真の友人となり、彼らの真の隣人となりました。そしてその多くの人たちが死を迎えたとき、彼女は最後までその傍らで手を握り締め、慰めの言葉をかけ続けたのです。

 このように、彼女は隣人の喜ぶ姿を追い求め、隣人の楽しむ姿を追い求めたのです。そして、この隣人の喜ぶ姿を追い求め、隣人の楽しむ姿を追い求める生き方、この生き方こそ、聖書が教える人間の本来の生き方であり、最も大切な生き方なのだと思います。

 聖書のみことばです。人は「自分の満足を求めるべきではありません。(私たちは)おのおの(自分の)隣人を喜ばせ」るべきです。(ローマ15:1、2より)
 どうか、私たちが「自分さえよければいい、自分さえ楽しければいい」という現代社会の只中にあって、隣人の喜ぶ姿を追い求め、隣人の楽しむ姿を追い求めて生きることができますように。