2011年6月26日(日) 心を見られる神
おはようございます。芸陽教会の佐藤暢子でございます。
私は窪川町に生まれ、母が聖書の神を信じる人でした。その母の口癖は、「天地を創られた神様は、あんたの心の中を見ゆうきねぇ」と言うことをよく言ってくれました。幼い私の心には、すごく受け入れやすく、分かり易い聖書理解のことばでした。この言葉の根拠を聖書の中で見つけることが出来たのは、ずいぶん後のことです。
外見ではなく、思うこと考えることを神様はすでに知っていてくださることは、とても大きな慰めとなります。世間的にみて正しいことをしているときでも、そのことが相手に受け入れられなかったり、正しい行動がいじめの対象になったりするときは、すごく落ち込んだり、イライラしたり、腹立たしい思いになったりしますよね。
しかし、聖書の神様は「全てをご存知である」と言われます。神様のご存在を意識できることは、神様が私たちに味方してくれているのと同じです。心の中はいつも平安で幸せな気持ちで居られます。
少し成長した私は「心を見られゆうがやったら、きれいな心でおらないかん」と思う気持ちになり、自分では、人には褒められるし、他人に迷惑もかけやあせんし、誰とでも仲良く出来ているし、私の心は、結構「きれいな心」の持ち主じゃないかと思うようになりました。今思うと、なんと傲慢な自己中心的な考えをしていたのでしょう。恥ずかしいことです。
その後、聖書から徹底的に、自分の心が神に背を向けるとてもきたない心があることを気付かされました。まさに、目からうろこです。聖書のマタイ伝5章からはイエス様の教えが書いてあります。「わたしは、言っておく」の書き出しのところは、罪ある私を神様の規準に照らしたら、どんだけ惨めな人間であるかということがわかる聖書箇所でありました。「殺すな、人を殺した者は、裁きを受ける」と命じられている。当然、その行為は罪であり、結果は裁判を受けなければならないことですが、神の規準は行いではなく、その人の心の状態を見ておられるので、「腹を立てる者は裁きを受ける」とあり、「姦淫するな」と命じられている。「神の規準は、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも既に心の中でその女を犯したのである」とこのように、聖書の教えは行為の結果ではなく、心の奥深いところを見ていてくださる神の正しい清い判断がなされられる。
誰一人として、神様の規準に適合する者は居ないはずです。人間の移ろいやすい心の状態を神は知っておられるのです。聖書の神様は、「罪人を招くために世に来た」とおっしゃられて、「元気な人には医者はいらない」ともいわれているように、私たち罪人にとって最大の救いのご計画が示されています。それは、完全に神様にお従いしたみ子イエス・キリストを救い主として信じることのみです。
人間の側に救われるためのハードルは何も無く、神様の側が一方的に私たちを憐れんで、愛してくださっています。素直な心でイエス様を「救い主」と信じて、お従いしましょう。生きて働かれる神様のみ言葉を信じて歩む者には、神様のお守りと支えがあることを教えられております。
どうか、ご自分の心を静かに見つめ、神様の教えに耳を傾けてみませんか。私は、神を知ることは何よりにも勝る宝をいただいたと思えるようになりました。