2011年6月19日(日) 神さまの霊によって新しく生まれる
おはようございます。芸陽教会の宮武輝彦です。
私たちは、生まれ変われるとしたら何かになりたいと考えたことがあるでしょうか。あるいは、人間ではなく何か他のものに変わってみたいと想像してみたことがあるでしょうか。
あるとき、イエス・キリストはニコデモという人にこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と。これを聞いたニコデモは大変驚いて、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問い返しました。もし、私たちも同じ場所で同じ事を言われたら、このニコデモと同じように答えるかもしれません。それはごく自然な不思議に対する問いかけです。
果たして、イエス・キリストはここで人が新たに生まれる必要をどうしてはっきりとおっしゃったのでしょうか。それは、人間が神さまに造られた者であることを知るとき、よく受けとめられるものです。創世記2章7節を見るとこのように言われています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。
つまり、神さまが人間をお造りになったので人は生きているのです。ここには、まったく完全な神さまのご意志とお働きがあるだけです。ですから、イエス・キリストも人が新しく生まれなければならない理由を指してこう言われています。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ3:6)と。つまり、人間がその自然のままに出生するとき人間から人間が生まれるのと同じように、神の霊の働きのあるところには、神さまの霊によって神さまの霊による新しい人が生まれると言われているのです。つまり、神さまの霊、聖霊がわたしたちの内に生きて働くときに、わたしたちは新しい人間として新しく造り直されるということです。これは、私たちの内から、その心の深み、心の底からなされる聖霊の働きであり、その結果です。
どうしてイエス・キリストは、このように人間が新しく生まれなければ神さまの救いをよく見ることができないと言われたのかと言えば、それは、人間自身が全人類の代表であったはじめの人アダムが、神さまのご命令に反して自ら罪を引き入れたために、神さまの裁きと死そのものを負うものとして生まれてくるからにほかなりません。ですから、このような人間を神さまが深く憐れんでくださって、イエス・キリストをこの世に遣わしくださって、この神さまの独り子イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることができるようにしてくださったのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」とは、実に、このようにイエス・キリストがどうしてこの世に来られなければならなかったのかを伝える、神さまの言葉です。
今、この神さまの霊、聖霊は聖書の言葉が語られ、聞かれるところに生きて働いておられます。そして、とくにキリストを信じる人々の群れの中に祈りの霊として生きて働き、その交わりを生きた交わりとしてくださいます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)と言われたイエス・キリストの交わりの中に、聖霊の恵みによって救いの実りを見る人は、本当に幸いです。