2011年3月20日(日) 命

 おはようございます。山下正雄です。

 命の尊さについて考えていますが、正直言って「命」がなんであるのか、わたし自身、素朴にしかそのことを考えたことがありません。
 生きている人間には毎日接していますし、たまにですが、死んだ人の遺体を目にすることもあります。生きている人と死んでいる人を見間違えることはありませんが、しかし、どの瞬間で生きた人が死んだ人になるのか、わたしには分かりません。

 もちろん、心臓の停止した瞬間を生から死への転換だと定義すれば、その瞬間の訪れを告げることはできます。脳波の停止した瞬間を生から死への転換だといえば、その瞬間を装置を使って検出することもできます。しかし、それはあくまでも人間が便宜的に造り出した定義で、ほんとうにそれが死そのものの瞬間なのかどうか、わたしにはわかりません。

 そもそも「命」とは何なのか、そのことですら、どう定義したらよいのか無知なわたしには分かっているようで分かっていません。しかし、くどいようですが、それが分からなくても生きている人と死んでいる人を見間違えることはまずありません。

 もっともこれが聖書の世界の命の話になると、この常識的な知識や感覚ですら役に立ちません。聖書にはこんなキリストの言葉が記されています。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:26)

 もちろん、前後の文脈を読まなければ、ここだけを紹介されてもすぐには意味は取れないでしょう。しかし、前後に記された出来事を読んでもなお理解しがたい言葉です。

 イエス・キリストはご自分を「命である」とおっしゃっています。その場合の「命」とはいったい何のことでしょう。「死んでも生きる」とか、「決して死ぬことはない」とか、普通の常識で考えていては、まるでちんぷんかんぷんの内容です。

 繰り返しになりますが、では、一般的な意味の「命」についてならよく知っているかといえば、それすら危ういところがあります。ただ、生きた人間と死んだ人間とを区別できるので、「命」についてそれが何であるかを知っているように思っているだけです。

 ただ、わたしにも聖書を読んでいて分かることは、聖書では、わたしたちが問題にしている「命」とは違った意味の「命」が問題とされているということです。聖書は、心臓が動いて生きている人間を指して、霊的に死んだ人と言ってみたり、肉体の死を迎えても、なお神の国で迎える永遠の命について語ったり、わたしたちのもっている「命」についての常識では捉えきれない命について語っています。

 だから、聖書は非常識な絵空事だと言いたいのではありません。そうではなく、常識的に知っていると思っている「生命」についてさえ、わたしたちの知識はあやふやなものにすぎないのですから、そのあやふやな知識を基準に聖書の教える「命」について切りすてて耳を貸さないのはどうしたものかということなのです。

 生命とは何なのか、偏見抜きで聖書の言葉に耳を傾けてみる大切さを思います。そうするときに、命の本当の大切さやこの地上での生き方に新しい光が指してくるものと信じます。