2011年3月13日(日) 神のかたちに造られたから

 おはようございます。山下正雄です。

 旧約聖書の一番最初の書物は、『創世記』という書物です。そこには天地万物が神によって造られ、人もまた神がお造りになったものであることが記されています。その人をお造りになるときに、神はこうおっしゃったと創世記には記されています。
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)

 神はお一人しかいらっしゃらないのに、なぜ「我々」とおっしゃるのか、という問題は脇へおいておくとして、ここで最も大切なのは、神はご自身のかたちにかたどって人間をお造りになったということです。神はあらゆる動物をお造りになりましたが、他の動物たちのどの種類についても、一度たりとも「神のかたち」に似せてつくったとは記されていません。人間だけが「神のかたち」を持つ生き物なのです。

 しかし、後にも先にも聖書には「神のかたち」とは何であるかということが、直接語られているわけではありません。ただ、少なくとも確実に言えることは、神は絵で描いたり像として形に表せるような姿をお持ちになっていらっしゃらないということです。ですから、ここでいう「神のかたち」ということが、神の姿かたちのことを言っているのではない、ということは確かなことです。

 では、いったい聖書が言う「神のかたち」とは何なのか、きょうはそのことについてお話ししようと思ったわけではありません。そうではなく、この「神のかたち」という言葉が、もう一度出てくる個所と、その使われ方に特別の興味を抱いたからです。

 そのもう一つの個所とは、同じ創世記の9章にある言葉です。そこにはこう記されています。
 「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は 人によって自分の血を流される。 人は神にかたどって造られたからだ」(9:6)。

 ここには、人の命を奪う者には賠償が求められるということが述べられていますが、同時に、なぜ人の命には命の代償が求められるのか、その理由が述べられています。それは、人が神のかたちにかたどって造られたからです。言い換えれば、人間の命の尊厳は、人間が神のかたちに造られているところにあるのです。それが聖書の教えです。

 もちろん、聖書の世界では造られた人間とそれをお造りになった神とは決して混同されることはありません。人間が神になったり、神性を持っているという意味ではありません。神のかたちが何であるかという説明は記されてはいないものの、その神のかたちがあるという理由で、人間の命には特別な重みがあると聖書は語っているのです。

 しかも、神が人間をお造りになる場面を記した聖書の言葉によれば、神のかたちに造られたのは、男だけではなく女もそうであったと、わざわざ記しています。

 しかも、最初に造られたアダムとエバだけが神のかたちを持っていたのではなく、その子孫である人間はすべて神のかたちを持っているのです。そうでなければ、人の命の尊厳を説く創世記9章6節の言葉は意味を失ってしまいます。アダムとエバの子孫にも神のかたちがあるからこそ、神はすべての殺人から命の代償を求めていらっしゃるのです。

 さらに、驚くべきことに、この創世記9章6節の言葉は、堕落したあとの人間について語っているという点です。罪あるわたしたちから神のかたちが完全に失われているというのではありません。命の代償を求めるに値するほどに、罪ある人間の命にもなお尊厳さがあるのです。