2011年3月6日(日) 命の尊さを思う

 おはようございます。山下正雄です。

 「一人の生命は、全地球より重い」という言葉は、1948年3月12日に下された最高裁判決の判決文の中に出てくる言葉です。命の尊さについて語られるとき、しばしばこの「一人の生命は、全地球より重い」という言葉が引用されます。それほどに有名な言葉です。しかし、皮肉なことに、この判決自体は、死刑制度を合憲であるとしたものでした。死刑制度をめぐる問題はさておくとして、一人の人間の命が何にもまして尊重されるべき尊厳さをもったものであることは、万人の認めるところです。

 しかし、それとは裏腹に、現実の世界では、意図的な差別の結果、命が軽んじられている人々がいるというのも事実です。あるいは、無知や無関心の結果として、一人の人の命が軽んじられるという場合もあります。

 差別の結果なら、差別を正すことで解決の道が開かれます。無知や無関心の結果なら、正しい情報を提供することで無知を克服し、関心を高めることができます。もちろん、差別を正すことは簡単なことではありません。無関心な人の心に関心を呼び覚ますことも容易なことではありません。ただ、地道な努力を積み重ねることで、少しずつ事態を変えていくことができるはずです。

 しかし、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という突拍子もない質問に出会うと、命の尊さが根底か覆されてしまったような気持ちになってしまいます。
 そもそも「なぜ人を殺してはいけないのですか」という質問が、いったいどんなところから出てくるのだろうかと思ってしまいます。それは無知や無関心や差別とは全く違った次元のものから出て来る質問であるように感じます。

 うまく表現できないのですが、人間の命の尊さが肌身に感じられているところには、そもそもその様な質問は決して出てこないと思うのです。人と人とが互いに尊敬しあい、慈しみ合っている世界であるとすれば、人を殺そうという思い自体が生じるはずがないからです。

 裏を返せば「なぜ人を殺してはいけないのですか」という質問が出てくること自体が、実はわたしたち自身の生きている社会が、人間の命の尊さを、知らず知らずのうちに軽んじてきている結果のように思えるのです。もっといえば、一人の人間として大切にされたいという悲痛な叫びが、この根底を覆すような質問の背後にあるようにさえ感じます。

 「なぜ人を殺してはいけないのですか」という質問を耳にして、「けしからん」と怒りを覚えることは簡単です。しかし、その背後にあるわたしたち人間社会の有様を決して見過ごしてはいけないように思うのです。

 悲しいことに、わたしたちの生きている社会は、一方では人の命の尊さを説きながら、他方ではそれを裏切るような事柄に満ちているという、矛盾に満ちた社会なのです。
 わたしは、決して傍観者のように一段上から社会を眺めて、この矛盾した社会を批判しているのではありません。まさにその社会に生きる一人として、自分にできることは何かと探しているのです。

 わたしにできること、それはほんの些細で小さなことかもしれません。世の中を変えるには余りにも力がないことは自分が一番よく知っています。しかし、そんなわたしにも自分を動かしている大きな原動力があります。それは、自分自身が聖書の神から大切に扱われているという思いです。この聖書の神の深い愛に触れているときに、矛盾した社会の中にあっても、希望を持って命の尊さについて語り続けることができるのです。