2011年2月27日(日) 天の父なる神様

 みなさまお元気でいらっしゃいますか。山田教会の泥谷ちひろです。

 私が小学生の頃、万世一系の天皇といって、「天皇は初めから神であって、代々神の血筋である」という、そういった時代でした。ですから手を振ってお迎えするなんて考えられませんでした。天皇一行が外出される時は行幸、行くという字と幸いと書きます。行幸と言われていました。天皇が通る道の両側に人々が跪き、頭を低く下げ、目を上げて見てはならないことになっていました。

 お姿は写真でしか見られませんでした。学校では「写真を拝む」という時間があり(今では体育館で卒業式などをしますが)、講堂というのがあって、正面の壁側に二重の扉があり、中に美しい特別のカーテンがありました。それを開けると、天皇と皇后両陛下の写真があり、それに最敬礼をしました。
 毎月一回は、運動場で朝礼のとき、東京の方に向かって「宮城遥拝」をしていました。遥拝とは遥かに拝むと書きます。私たちの学校では、東京の方向は右側でしたから、司式者は並んでいる生徒一同に次のように号令をかけました。「右向け右、宮城遥拝、最敬礼、直れ、もとい」と。「もとい」はもとのように向くことです。宮城というのは東京へ都を移した後、江戸城を皇居と定めて東京城と呼び、1888年、明治21年に旧西の丸に宮殿を新築完成後、宮城というようになり、現在は皇居と呼ばれるようになりました。

 敗戦の時が来て、嘘のことを教えられていたことを知り、人々は何事にもやる気をなくしてしまいましたが、食べるためには何かをせざるを得ず、焼け跡を整理して野菜を作って、生き延びました。

 空襲のとき、焼夷弾が私の家の三軒西の家の、木の上に落ちて燃え始めました。そのときは、私も一所懸命防火水槽から水を運んで火を消しました。幸いに、私の家は焼けずに済みました。
 焼夷弾が落ちてくるときは、上空からの大掛かりな花火のようでした。パチパチ、パチパチと言いながら落ちてくるのでした。私は神戸の平野というところで、坂の中腹の辺りに住んでいましたが、私たちの家のすぐ西の方からは火の海になり、遥か西の方の鷹取山までは燃え崩れてしまいました。そのさらに向こうに明石があるのですが、明石が爆撃にあったときは、真っ赤に燃えて、まるで夕焼け空のようでした。夕焼け空は美しいと思いますが、今でも全体に真っ赤なときは、鷹取山の向こうに見えた明石の光景を思い出します。

 ある夜、私の父は暗闇の道を帰って来るときに、半分焼けてぶら下がっていた木の電柱が左足の甲に落ちてきて大怪我をしました。入院するお金は無く、医師も知った人がおらず、毎日、家で消毒し、お薬を付けるのみでした。翌年、父は亡くなりました。

 その頃、よくキリスト教のチラシを受け取り、あちこちの集会に行きました。聖書クラスに定期的に通い始めましたが、人々がいつも「天の父なる神様」と神様をお呼びしてお祈りするのを聞いて、大変慰められました。私よりも、もっともっと辛い経験をした方もおられますが、私が体験したことの一部分をお話しました。

 苦しかった人生を通して、見えない形ですが色々の教訓を学ぶことが出来ました。中でも、「天のお父様」と言ってお祈りして、大きな慰めが与えられたことを感謝しています。また、イエス様の数々の恵みのおかげで今の自分があることを覚え、喜びに堪えません。