2011年2月13日(日) まことの救い主イエス・キリスト

 山田教会の泥谷逸郎です。
 今日は、イエス・キリストについてお話をしようと思います。まず、お名前の解説をいたしましょう。イエスとは、神様がお付けになったお名前です。「主は救い」という意味です。キリストとは、「油注がれた者」という意味で、メシアとも呼ばれます。

 油注ぎは、預言者、祭司、王などに任職されるときにオリーブ油が注がれたことによっています。イエス・キリストというお名前そのものが、この方のすべてを表しています。この方は、神が救う者として任職されたお方です。こういうわけで、この方以外に、私たちを救う者はいません。

 このお方は、もともと神の御子であられます。ですから、神であられます。しかし、神の身分でありながら、神と等しいことに固執しようとなさらず、約二千年前に人間の姿を取ってマリアの子としてお生まれになりました。この方は、神であられると同時に人にもなられました。こういうわけで、イエス・キリストは、神であられると同時に人でもあられるのです。しかし、この方は私たちと違って、罪は全くありませんでした。この方は完全に義しく、完全に清い神であられます。と同時に完全に義しく、完全に清い人であられます。

 父なる神は、罪のないこの方に信じる者の罪を着せ、私たちに代ってこの方を罰せられたのです。神は、罪なき人として来られたこの方に罪を転嫁し、この方を打つことによって、信じる人を赦すためでした。こういうわけで、イエス・キリストを信じる人は、誰でも罪を赦され、救われます。神は、聖書を通してこう言われています。キリストは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と。イエス・キリストご自身も、人となってこの世に来たのは、私を信じる者が一人も滅びないで、救われるためであると教えておられます。ここに神の愛があります。

 聖書の中で、神は次のように言われています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:9-10)と。

 私たちは、母の胎内に宿ったときから、罪のうちに孕まれ、罪を持ってこの世に生まれ出ました。私たち人間は、例外なく、罪人として誕生し、罪人として人生を送っています。持って生まれた罪の上に、さらに日々罪を積み重ねる人生を送っています。

 どんなに小さい罪であったとしても、罪は神に対する罪です。神はその罪を怒っておられます。この罪は、自然に解消するほどに簡単なことではありません。罪に対する神の怒りが宥められなければなりません。人間の内で一体誰がこの怒りを宥めることができるでしょうか。それがおできになるのはイエス・キリストお一人です。ですから、この方の他に救いは無いのです。これが救いについての真理です。

 こういうわけで、今日、私はイエス・キリストをご紹介いたしました。イエス・キリストを信じるとき、神の怒りは消え、愛に生かされ、永遠の命の恵みをいただくことができます。