2011年1月30日(日) 命の水であるキリスト
おはようございます。芸陽教会の宮武妃呂美です。
私達は人生の中でさまざまな出会いを経験します。一つの出会いが人生の大きな転機、また、方向転換のきっかけとなることもあるでしょう。聖書には、救い主イエス・キリストと出会い、その人生が大きく変えられた一人の女の話しがあります。
イエスが旅の途中、サマリヤという町を通りかかり、ちょうど正午ごろ疲れてヤコブの井戸といわれるところに座っておられました。すると、一人のサマリヤの女が水を汲みにきました。通常、水汲みは早朝や夕暮れ時の涼しい時にするもので、日中の一番暑い時間に水を汲みに来る者はいません。どうしてこの女は一番暑さの厳しい時間に水汲みに来たのでしょうか。彼女は人目を避け、こっそりと井戸に水を汲みに来たのです。
実は、彼女は過去に5人の夫をもち、今は法的には夫でない男と一緒に暮らしておりました。当然、評判がいいはずがありません。幸せの薄い、悲しい人生を送っていたかもしれません。そのような女に主イエスは話しかけられたのです。
聖書の中で、井戸は出会いの場所です。イサクの花嫁と出会ったのも、ヤコブが妻となるラケルと出会ったのも、井戸でありました。
水の湧き出る井戸、特に、ヤコブの井戸は聖なる場所と呼ばれていました。その場所で、主イエスは女に「水を飲ませてください」と頼みます。しかし、当時、サマリヤ人とユダヤ人はお互いに対立して、親しい交流がなかったので、女はとても驚きます。
すると、主イエスはこう言われます。
「もし、あなたが、…『水を飲ませてください』と言ったのが、だれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハネによる福音書4章10節)、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書4章14節)。
すると、この女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と願います(ヨハネによる福音書4章15節)。
主イエスは、人目を避けて、暑い日中水を汲みに来た一人の不幸な女に話しかけられ、彼女の素性を言い当てます。そればかりでなく、彼女と話している自分こそが、来るべきメシア救い主であることを証します。
そして、決して渇くことのない生きた水、永遠の命に至る水を与えると言われたのです。この生きた水、永遠の命に至る水とは、主イエスご自身です。主イエスは彼女を救うと言われるのです。この女の行いや素性は問題ではありません。主イエスはこの女のありのままを受け入れてくださったのです。それは、まさに、彼女に対する神の深い憐れみです。
この神の深い憐れみ、救いは過去のものでありません。今を生きる私達も、イエス・キリストと出会い、主イエスを自分の救い主と信じる者には、渇くことのない永遠の命の泉がわき出ます。それは赦しという魂の救いを経験するからです。
イエス・キリストは今、あなたを救うため、あなたの罪の一切を背負って十字架におかかりになり、あなたの罪を帳消しにしてくださいました。主イエスはわたしたちを救うため、ご自分を十字架の上に投げ出してくださったのです。そのことを自分のこととして信じる者は、今を生きる喜びと平安、そして、将来への希望という決して渇くことのない永遠の命に至る水が生涯与えられるのです。
教会は神様がこの地上に与えてくださったイエス・キリストとの出会いの場所です。教会の礼拝において語られる主イエスのみ言葉は、あなたのうちに渇くことのない泉となってわき出るでしょう。
主イエスは今、あなたを永遠の命の水が流れだす真の礼拝へと招いておられます。そして、礼拝において決して渇くことのない命の水の源である主イエスと出会うことができますように。どうぞ、あなたも日曜日には教会にお出かけください。