2011年1月9日(日) キリストについて
おはようございます。清和学園の後登雅博です。
キリスト教ではイエス・キリストが神であると信じています。ですからキリスト教と言うわけです。しかし、イエスという人物を神であると信じることは、なかなか難しいのです。イエス様の言動を見れば真に素晴らしい方でした。病気で苦しんでいる人の病を癒してくださいました。気落ちしている人を立ち上がらせてくださいました。そして、当時の権力者を前にしても一歩も引かず、真の神とはどのような方かを明らかにしました。
そのため、ついには人々のねたみを買って、十字架につけられてしまいました。キリストはその生涯を通して自分は神と一つであるということを明らかにされたのです。でも、どんなに素晴らしい人であっても、自分を神と同一視するなら普通はおかしなことを言っていると思われるのが落ちです。イエス様が活動した当時、人々はイエス様に向かって、「本当に神様なの?」と言いたかったのだと思います。
あまり大きな声では言えませんが、わたしも時々生徒から「本当に先生なの?」と言われることがあります。生徒にしてみれば普通の先生と比べてかなり甘い教師ですから、教師らしくないと思われているようです。確かに、出来れば怒りたくないと思っていますし、少しぐらいの失敗は多めに見てしまう傾向があります。しかし、生徒には「もっとしっかりしてよ」と言われたりもします。ですから、決して立派な教師とはいえません。でも、教員免許もありますからこれでも教師なのです。
教員免許があれば、「教師です」と胸をはって言うことができます。では、どのような免許を持っていれば、「神様です」と胸を張って言うことができるのでしょうか。キリストはどのような資格を持っていたので、自分と父なる神とを同一視することが出来たのでしょうか。それは、父なる神の願うことを行っているということでした。神の願っていること、それを御心と言います。キリストは常に神の御心に従って生きておられたのです。
では、神の御心とは何でしょうか。それは、既に言いましたが、十字架につけられるということでした。キリストに対する神の御心は、人間としてこの世に生まれ、神とはどのような方かを明らかにし、十字架の死に至るまで低くなると言うことでした。言い換えれば、十字架を目指して生きると言うことでした。
十字架ですから、その最後は死で終わるのです。でも、キリストの死は私たちにとっては命となるのです。何故なら、キリストの十字架とは立派な人が自分の使命に殉じた死とは異なるからです。キリストの死は決して英雄の死ではありません。また、神に対する信仰心の厚い人の死でもありません。真の神の死なのです。キリストは自分のために十字架にかかったのではありません。まさに、私たちのために十字架にかかったのです。
ところが、十字架がまた問題です。キリストが神であるならどうして死んだりするのでしょうか。それは、私たちの苦しみを良く知るためです。もしそう言って良ければ、十字架は人生のどん底です。つまり、キリストは神であるにもかかわらず、人生の悲しみ苦しみを味わいぬき、どん底にまで降りて来られた神なのです。キリストは十字架にかかるまでに低くなったのだと聖書は言います(フィリピ書2:6-8)。キリストはあなたのために苦しむほどに、あなたのことを愛しておられるのです。