2011年1月2日(日) 神について
おはようございます。新しい年を迎えていかがお過ごしですか。清和学園の後登雅博です。
日本では、八百万の神と言い、たくさんの神様がいると考えられています。人間も動物も、石や木でさえ、時には神様としてあがめられることがあります。そのように、何でもかんでも神になってしまうのに対して、キリスト教では神はただ一人であると考えます。聖書には「我らの神、主は唯一の主である。」(旧約・申命記6:4)と書いてあります。神が唯一であると言うことは、言い換えるなら、神と神以外のものが徹底的に区別されていると言うことです。つまり、神と神によって創られたものと言う区別です。
しかし、神が唯一であると言っても、そもそも神がいるということが信じられないという人も多いでしょう。神がいてもいなくても自分には全く関係ないと思っている人もいるでしょう。そういう人にとっては、八百万の神だろうが、唯一の神だろうが、あまり大差はないのかもしれません。
でも、本当に私たちは神がなくても生きていけるのでしょうか。「困ったときの神頼み」という言葉があります。普段は信仰がないという人もいざという時にはわらにもすがる思いで神を求めることがあるのです。そして、世界のどの民族を調べても神を持っていない民族はないそうです。もっとも、「いわしの頭も信心から」と言いますから、神とは名ばかりで、全く無意味な力のない神もあるかもしれません。しかし、いずれにしろ、人間は神なしでやっていけるほど完全ではないのです。
では、キリスト教の神が一つであると言うことは、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それは、私たちが神を求めてあちらこちらに行く必要がないと言うことです。つまり、片やいわしの頭のような神から、それは大層立派に見える神まで、世間には色々な神々があります。しかし、色々な神々があるということは、それだけ人間の不安も色々あるということです。家内安全、無病息災、大願成就。人間の欲望と不安は、それこそ八百万の神よりも多いのです。ですから、たくさんの神々を作り出してしまうのです。例えば、勉強の神様、縁結びの神様、交通安全の神様。たくさんの神様がいると安心なように感じるかもしれません。
しかしたくさんの神様が居るということは、逆に、どんな問題にも解決を与えてくれる全知全能の神がいないということです。でも、キリスト教の神は唯一なのです。少し御幣があるかもしれませんが、私たちはキリスト教の神様に向かってどんなことでもお祈りしてよいのです。勉強のこと、結婚のこと、将来のこと。本当の神様だけが、どんな祈りにも答えることが出来るのです。これこそ本物、といえる唯一の神がいるならその神を信じるだけで十分なのです。
そして、キリスト教の神は愛を求める神です。聖書にはこう書いてあります。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(旧約・申命記6:5)。神様なのに人間の愛を求めるなんて変だなあ、と思うかもしれません。でも、反対のことを考えて見ましょう。あなたが自分のことを愛して欲しいと思うのは、どんな人ですか? それは、自分が愛している人だと思います。自分が愛しているからこそ、相手からの愛を求めるのです。神様も同じです。キリスト教の神様は私たちを愛しているので、私たちからの愛を求めるのです。
私たちが誰かを愛するとき、その人のためになることをしてあげようと考えます。やはり、神も私たちを愛しているので、私たちにとって一番良いことをしようとして下さるのです。私たちの愛を求める神はそれだけ私たちを愛している唯一の神なのです。