2010年12月19日(日) 主は我らと共に

おはようございます。山下正雄です。
街ではクリスマス商戦もいよいよたけなわです。いやが上にも楽しげな音楽が流れ、きらびやかに飾られたショウウィンドウが一層クリスマス気分を盛り上げます。

しかし、こんなクリスマスの雰囲気に耐えきれない人も大勢いることだろうと思います。「クリスマスの晩は二人だけの夜を」などと言われても、愛する人を失って悲しみがまだ癒えない人には、酷としか思えないフレーズです。「愛する彼女にとっておきのプレゼントを」と言われても、プレゼントを手渡すほどの付き合いもない人には嫌みとしか聞こえません。それでも、まだ、仲間でワイワイと騒ぐことができれば、楽しいクリスマスを過ごすことができるかもしれません。
けれども、ほんとうに一人ぼっちの人はクリスマスをどう過ごせというのでしょうか。家に閉じこもって、できるだけこの世の浮かれた気分から身を潜め、ひたすらこの季節が終わるのを待っているだけなのでしょうか。そもそも、クリスマスは何のためにあるのでしょう。

イエス・キリストの誕生を記した福音書の一つにマタイによる福音書があります。その中にこんな言葉があります。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である(マタイ1:23)。

「神は我々と共におられる」…これこそ、クリスマスを通して、神がわたしたちに語っておられる中心のメッセージです。
旧約聖書の中には、繰り返し「神が人と共にある」というメッセージが出てきます。なぜ、そのことがたびたび出てくるのかということには、理由があります。それは、エデンの園での出来事にさかのぼります。人類の始祖、アダムとエバが罪を犯して堕落した時に、神は彼らをエデンの園を追放されました。それは人間が神を退けた結果です。
しかし、それからの歴史は、神を退け神から離れていく人間を、神が探し求め、ご自分と一緒にいることができるようにと救いの手を差し伸べる歴史です。

どんなに強がりを言っても、人間は一人では生きていけません。まして罪ある人間が何人集まっても、そこには幸福の実現は望めません。誰かの犠牲の上に幸福を築き上げ得ることはできても、その誰かの犠牲について考える余裕もないのが現実です。神が見るに、その人間の世界は悲惨を極めています。
そうであればこそ、神はこの人間の世界に積極的に関りを持ち、どんなときにも共にあることを決意されたのです。

神がイエス・キリストをお遣わしになったのは、神が人と共にいることをよしとされた、最高のしるしです。
聖書は語っています。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35,38-39)