2010年11月21日(日) 神の言葉を食べよ
「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(旧約・エゼキエル書3:1-3)
おはようございます。お変わりありませんか。山田教会の牧田吉和です。
今朗読しました聖書の言葉は、旧約聖書の預言者エゼキエルの言葉です。預言者とは神からの言葉を受けて、それを人々に語る使命を帯びた人のことです。
今朝の聖書の言葉には不思議な言葉があります。「この巻物を食べよ。わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」という言葉です。当時旧約聖書の言葉は巻物に記されていました。ですから、「巻物を食べよ」とは、「神の言葉を食べよ」という意味です。しかし、不思議なのは、神のことばは読むべきものなのに、「食べよ」と言われていることです。なぜわざわざ「食べよ」と言われているのでしょうか。旧約聖書エレミヤ書の中にもおなじような表現があります。「あなたの御言葉が見出された時、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました」(エレ15:16)。
神の言葉を読むとき、表面だけサーと読み流してポイと横に置く人もいます。あるいは口にしばらく入れても、すぐにパッと吐き出す人もいます。そうではなく、神の言葉を食べるとは良く噛んで、味わい、胃袋に入れ、お腹を満たすことを意味します。神の言葉を深く受け入れ自分のものにすることを意味します。このような読み方を強調したいために、「神のことばを食べよ」と表現されているのです。さらに、このように私たちが従順な思いで神のことばを心から受け入れ良く噛みしめるとき、神の言葉は「蜜のように口に甘いのだ」、そして私たちの「心が喜び踊るようになるのだ」と言われています。蜜のように甘く、心が踊るようになるとはどういうことでしょうか。詩編の詩人が「味わい、見よ、主の恵み深さを」(詩34:9)と告白しましたが、私たちはそのように主の恵み深さを知り、神を讃美するようになるのです。
しかし、神のことばを食べるとはいつも口に甘いばかりではありません。時には口に苦いということもあります。神の言葉は私たちの心を探り、私たちの罪や汚れ、あるいは神の裁きさえも私たちに突きつけることがあるからです。しかしその時には、神の苦い言葉をも受け入れ、十分に噛み砕き、心から悔い改めることが大切です。神は、砕かれた、悔いた心を喜んで受け入れてくださいます。その時、神の苦い言葉も私たちにとって主の恵み深さを味わわせてくださる言葉になるのです。
私はいつも思い起こします。私を忍耐深く導いてくださったクリスチャンの御夫人のことです。この御夫人は、いつも私にこう言い聞かせてくれました。「騙されたと思って聖書を読み続けなさい。聖書は裏切らないからね」。その通りでした。神の言葉である聖書を良く噛んで食べ続けたとき確かに時には苦い言葉にも出会い、心が刺し貫かれることも起こりました。しかし、やがて聖書を通して私たちの罪を贖うためにご自分の命までささげてくださったイエス・キリストの十字架の愛、神の愛を知るようになりました。苦い言葉も、悔い改めてキリストの十字架を信じたとき、甘い言葉になったのです。主の恵み深さを味わい、心が喜び踊るものとなったのです。
どうぞ、あなたも、神の言葉を食べてください。しっかりと噛み、もりもりと食べ、自分のものとしてください。そして、主の恵み深さを味わってください。