2010年11月7日(日) 人生の問題
おはようございます。清和学園の藤井真です。聖書の中に「コヘレトの言葉」というところがあります。その3章には、人生の出来事が時になぞらえられています。何事にも時があり、「天の下の出来事には全て定められた時がある」と。そして表裏一体と言える例を14挙げています。
生まれる時と死ぬ時、植える時と植えたものを抜く時、殺す時と癒 す時、破壊する時と建てる時、泣く時と笑う時、嘆く時と踊る時、 石を放つ時と石を集める時、抱擁の時と抱擁を遠ざける時、求める 時と失う時、保つ時と放つ時、裂く時と縫う時、黙する時と 語る 時、愛する時と憎む時、戦いの時と平和の時、です。
続いてコヘレトは「神は全てを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」、「人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ること」、「人が飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ」と語っています。
私たちはこの世に生命を与えられてから死ぬまでに、多くの時を過ごします。人によっては百年を超える方もあります。また幼くしていろいろな事情でその生涯を終えることもあります。
人生の時を重ねれば重ねるほど多くの人と出会い、助け支えられていることを実感します。一方、社会の中の悪いことも沢山見聞きし、知ります。また間尺に合わない事や理不尽なことに出くわします。コヘレトは、神のなさることは皆その時にかなって美しく、「永遠に不変」で「付け加えることも除くことも許されていない」と記しています。そうすると、毎日世界中で起きている悲惨な出来事もみなその範疇に入っています。実に理解しがたいことです。
しかし、人生の問題は何よりも自分のこと、自分の心の中の問題が原因で起こる表裏一体で言えば裏の時、すなわち人には言えないような思いや行いが残念ながら私にはあるということです。これがキリスト教で言う罪です。この罪と戦う時に、自分自身はもろく戦いは死ぬまで続くのだということを思い知らされます。
人はやがて死にます。そして例外なく神様の前に立ちます。人が犯してしまった罪を心から後悔し改めようと思っていてもそのままでは不完全で、天国に入ることは出来ません。そのときに、神様と私という人間の間に立ってくださり、数え切れないほどの罪を背負い贖って下さる方がイエス様です。このイエス様の働きによってのみ人は天国に入ることが赦されるのです。
神様は人のために、ご自分の御子であるイエス様をお遣わしになりました。そして、人間の罪を贖うためにイエス様は十字架にかかり、死に、そして甦られました。そのイエス様は今も常に私たちの傍らにいてくださり見守っていてくださいます。また、戸口の外にいて待っていてくださいます。皆さんが日曜日の教会に足を運んでくださり、もっともっと詳しくイエス様のことを知り、出会っていただきたいと願っています。