2010年10月17日(日) 困難に出会う意味
おはようございます。私は岡山県にあります、岡山西伝道所で牧師をしております中田と申します。どうぞよろしくお願いをいたします。
さて皆様は、幸せとは何だとお思いでしょうか。また不幸とはどのような状態のことをいうとお考えでしょうか。聖書を読みますと、イエス様の時代には病気の人や体の不自由な人たちがよく登場します。このような病気や身体的に障害のある人を、当時一般的には不幸な人と考えられていたようです。
新約聖書ヨハネによる福音書の9章には、「生まれつき目の見えない人」が登場して参ります。この人に出会ったイエス様の弟子たちは、イエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(:2)と尋ねました。彼らはこの人を見て、このような不幸な状態になったのはどんな原因があるのだろうかと考えたのだと思います。
当時、このような一般的に不幸と思われていた状況の中に置かれているのは、自分の罪や両親、または先祖が罪を犯していたからだという因果応報の思想が広く信じられていました。しかし、イエス様は弟子たちのこの質問に対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(:3)とお答えになりました。
文明社会に生きている現代の日本人も、不幸な出来事に対して、自分の罪とか先祖あるいは、他の何かの「たたり」が原因ではないかと考え、その原因を取り除くために神社でお祓いを受けたということは良く聞く話であります。
しかし、イエス様は、このような不幸の原因は誰かの罪の為でも、たたりの為でもないと言われました。返ってそれは、「神の業が現れるため」だと言われるのです。この事をもっと身近な事柄に直して言いますと、この不幸な状態にあるのは「あなたが神様に救われる為だ」と言っても良いでしょう。この目の見えない人は、この後、「主よ信じます」と言って、イエス・キリストを自分の救い主と信じ神様への信仰を告白しました。彼は、この時真の神様を知ることが出来、救いに入れられたのです。
神の業が現れるとは、この生まれつき目の見えなかった人のように真の神様を知ることによって、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血が自分の罪を赦し、キリストの復活が永遠の命を約束していることを、信じることが出来るようになる事です。
このように、私たちがイエス・キリストを信じて信仰を告白し、このお方に従っていくことを決心するようになることこそ、神様が私たちになしてくださる素晴らしい御業なのです。私たちが、この世において病気や貧困やその他の様々な困難に出会う意味は、決して、私の罪や先祖の罪、または「たたり」ではなく、このような幸い、永遠に続く幸いへと神様が私たちを招いてくださるためである、と聖書は私たちに教えてくれています。
苦しみの中にある方々には、その苦しみが自分の罪のせいだとか、先祖の罪の結果、または何かのたたりだなどと悩んだり苦しんだりしないでいただきたいのです。神様はあなたを愛し、あなたを求めて、あなたを永遠の救いに入れるために、しばらくの時あなたに試練を与えられておられます。ですから、私たちを幸いへと導いて下さるイエス・キリストに、ご自身を委ねていただきたいと思うのです。