2010年8月22日(日) 高知県伝道に生涯を捧げた宣教師の思い出(対談) 聞き手:熊田なみ子(スタッフ)
熊田なみ子《な》 おはようございます
門 脇昭 《門》 おはようございます
《な》 今日のキリストへの時間も先週から続きまして、山田教会長老 門脇昭さんにスタジオにいらっしゃっていただきました。どうもありがとうございます。
《門》 いえいえ、どういたしまして。
《な》 先週は、8月15日でしたので、戦争のお話をいろいろ伺いました。続けて今日は宣教師さんのお話を伺って行こうと思います。よろしくお願い致します。
《門》 高知県で、一番影響を与えたと言われる宣教師は、やはりW.B.マキルエン(William Beauregard McIlwaine 1869年〜1949年)先生だと思います。
《な》 マキルエン先生。アメリカから?
《門》 ええ、アメリカの南長老派の宣教師さんです。そして、高知県にずっとおって伝道した人なんです。他のところに行っていないんです。
《な》 生涯日本でお過ごしになったんですか?
《門》 20代の時に高知に来られて、そして、定年まで高知におられて伝道された(1889年〜1932年)。
《な》 そうですか。
《門》 非常に、なんと言いますか、ある意味では、地味な、非常に派手でない伝道をしたなと。それでも非常に信仰深い伝道をしてるなと私たちは思います。
《な》 人生のすべてをかけて土佐の伝道のために働いてくださった。感謝…。
《門》 (マキルエン先生は)高知市の西の方の旭というところに自分の教会を建てて、そこで伝道をしました。
《門》 その教会の前には 常石さんという方が、醤油を売っている店を持っておりました。その常石さんは、どうも町内に耶蘇(キリスト教)の先生がやってきた。これでは困る。どっか他に行ってもらいたいと思って、お酒を飲んで、教会へ乗り込んだ…。
《な》 これはまた大変ですね。常石さんがお酒を沢山召し上がって、教会に乗り込んでいった。殴り込みに行った。あぁそうですか。
《門》 そうしたら、お酒を飲んでおるもんだから、話を聞いておったけれども、寝入ってしもうた。(笑)
《な》 はい(笑)
《門》 ところが目を開けてみると、横で、マキルエン先生はじっとお祈りをしておったと。
《な》 ほぉ。
《門》 それで、一緒に来たはずの青年たちは、もう皆帰ってしもうて誰もいなかったと。
《な》 はい。
《門》 一人ではなかなか行けないので、何人か一緒に行ったと思いますけれど、他の人はもう皆帰っちゃって…。
《な》 じゃ、マキルエン先生と常石さんだけが残って…。
《門》 それで、マキルエン先生は常石さんに色々キリスト教のお話をして、そして、イエス様を信じたら、罪赦されて、天国にいきますよと。そうゆうような話をされたかと思いますが、段々常石さんはその話に引き込まれて…。
《な》 あぁそうですか。
《門》 それで、あぁ、これはなかなかいい話じゃないか、ということになって。
《な》 あら、追い出そうと思って行ったのに。
《門》 えぇ、来たのに。
《門》 それで(常石さんは)「私、あの、日曜日に来たいんですが」と。そうしたらマキルエン先生は「日曜日にお店を閉めていらっしゃい」と。
《な》 これは大変なことになりましたが。
《門》 「あれっ、何かどこかよそで開いてもいいでしょう」と。「いや、それは神様を欺くからいきません。全部閉めていらっしゃい」
《な》 日曜日は礼拝を捧げなさいと。で、常石さんはどうなさいましたか?
《門》 この人はやっぱり土佐人ですからね。「はいわかりました。それじゃ、家族、また従業員も一緒に教会に行きます」と。
《な》 えっ、みんな一緒に…。日曜日にお店を閉めるのは、お醤油屋さんですから大変なことですね。
《門》 大変なことです。そうゆうようにして、常石家は信仰の家庭になったんです
《な》 じゃ、ご本人だけじゃなくて…。。
《門》 ええ。それで教会の中心的な長老さんに、その常石さんはなったんです。そして子供さんたち一族の者が皆それぞれ立派なクリスチャンになった。
《な》 なるほど。マキルエン先生がまず場所を決めて、その前にお醤油屋さんがあって、お醤油屋さんの人がみんなクリスチャンになって。で、土佐の伝道がどんどん進んでいった訳ですね
《門》 そうです。
《門》 それで、マキルエン先生は、土佐山田の奥の方に物部村(ものべむら)の大栃(おおどち)というところがありますけれども、そこへ月に一度伝道に行ったんです。それも決まった時間に決まった時に、月に一回必ず行った。そういう伝道をした。それほど多くは集まっていなかったと思いますけれども。
《な》 まぁ、当時ですから。先ほど耶蘇とおっしゃいましたが、耶蘇教と言われて、嫌われてね、いますから。
《門》 それで、マキルエン先生がもう晩年になって、もうそろそろアメリカへ帰らなければならないと。定年だと。その時に橋本亘先生(1902年?〜1979年)は、その助手として一緒に大栃へ伝道に行った。
《門》 橋本先生は、バスに酔う、体があまり丈夫ではなかったので、山田で一休みしてそして大栃に行くというふうな習慣をつけたんですね。それだから、マキルエン先生がアメリカへ帰ったあと「マキルエン先生の伝道した所をどうしましょうか」と橋本先生が聞いた時に、マキルエン先生は「あぁ君やってくれ」と。
《な》 なるほど。そうですか。
《門》 で、橋本先生は、そのマキルエン先生が伝道しておった大栃へも月に一回必ず行くという、そうゆう伝道している。その途中で一休みする間も、山田でアコーデオンを自分で弾いて、伝道したという。子供を集めて。
《な》 アコーデオンを弾いて、子供を集めて…。
《門》 マキルエン先生がまだ健在の時に 山田の教会を自分のうちに看板をかけたのが、西村清さん(にしむらきよし 1907年〜1936年)という。この人は、陸軍幼年学校に行っておって。だから優秀な人なんですけれど、結核になって、家に帰って、結核を療養しながら。自分が聖書を読んで、マキルエン先生にいろんな質問をして、それでマキルエン先生が来るようになって、マキルエン先生の説教を聞き、教えを聞いて、洗礼を受けた…。
《な》 はぁ、そうですか。
《門》 それが、山田の教会の最初なんです。
《門》 そして、マキルエン先生から洗礼を受けた、私の家内の父親が定年になって、橋本先生に「どこに家を建てようと、そして、集会を開きたい」ということで(ご相談し)、山田に、今の教会の隣へ家を建てたんだと。
《な》 なるほど。あぁ、そうなんですか
《門》 そこで集会を始めたんですね。西村清さんの家とはだいぶ離れてますけれども、西村清さんはもう結核で亡くなって、そして、その家でしておった集会を きたむらの家で続けることになったというような状況なんですね。
《な》 本当に脈々と神様の恵みが繋がって、そして今の山田教会に…。
《門》 そうです。マキルエン宣教師の働きによって、本当はできたみたいなものだと私は思います。
《な》 なるほど。こういう宣教師さんの沢山の働きで…。プロテスタント150周年という。去年そうでしたが。
《門》 西村清さんに マキルエン先生が、「あなたの家の中にあるお札、神社のお札だが、これは除けたらいいですよ」と言ったら、西村清さんは 除けてしまったという そうゆう風な伝道をしたんですね。
《な》 真の神様を恐れて。はい。そうですか。
《な》 まだまだ高知県伝道のお話は沢山ありそうですので、2回ではとてもお話を伺いきれませんが、先週、今週、いろいろなお話を伺うことができました。ありがとうございます。
《門》 いえいえ、どういたしまして。
《な》 また、機会がありましたらお聞かせください。よろしくお願い致します
《門》 はい、こちらこそよろしくお願いします。
《な》 ありがとうございました。
《門》 ありがとうございました。