2010年8月8日(日)坂本龍馬周辺のクリスチャン(2)
おはようございます。山田教会の門脇昭です。前回は龍馬の従兄弟の沢辺琢磨のお話をいたしました。今回はその沢辺琢磨に大いに影響されてクリスチャンになった坂本直寛と言う人の話をいたします。坂本直寛は龍馬の甥、姉さんの子供であります。そして兄さん、権平の養子になった人物であります。龍馬が暗殺されたときは直寛は15歳、養子になったときは17歳でありました。
その後変則中学、旧制中学に入り、後上京して英語を学び、高知に帰り、立志学舎英語普通科に入学をいたしました。そして、英学を学び、25歳で政治結社立志社の一員となりました。そして演説に、文筆に大活躍をして、その立志社に欧米の社会、政治を学ぶうちにその根底にキリスト教があるという考えから、立志社では宣教師が招かれ、説教を聞くようになった。そのような状況にある中で、沢辺琢磨は高知に帰り、立志社に立ち寄り坂本直寛に影響を与えたと言われている。
そして坂本直寛は片岡健吉らと宣教師から洗礼を受け、信者となりました。その際試問をした宣教師はその自由民権の志士たちの教理理解は不十分であったが、この機会を逃すとまたと来ないと考えて洗礼を授けることにしたと言われています。その人たちを中心にして高知教会が設立されました。現在の日本キリスト教団高知教会であります。直寛はそのとき33になっていました。
神はその後坂本直寛に試練を与え立派な信者に仕立て上げました。その試練のことをお話しましょう。
第一の試練は35歳のとき、明治20年、有志たちと3大建白書提出のため上京し、保安条例違反で投獄され、1年有余の獄中生活を余儀なくされました。その間聖書を読み、祈り、お互いに励ましあい、信仰を深め、片岡健吉氏はのちに、私にとってはこのときが神学校だったと述べています。直寛にとっても同じでありました。
第二の試練は大赦で解放されて、すぐその夏、奥さんとその妹が海水浴中に溺死するという悲しいことがありました。直寛は悲しみに打ちひしがれた。身内の死と言う試練を受け、信仰が深められました。直寛37歳の時のことであります。
第三の試練は政治に失望して、北海道の北見の地に理想の村を作るべく土佐の地から開拓団を組織して渡航し開拓を始めました。しかし35人の幼児を麻疹で死なすなど困難を極め、荒野にひざまずいて祈る毎日でありました。直寛にとっては45歳になっていました。
第四の試練は同志武市安栽の浦臼ではじめた聖園農場がこれからと言うときに武市安栽は急死し、指導者を失いました。そのような状態にあるとき直寛は浦臼に移り住むことになりました。46歳でした。その四ヵ月後、石狩川の大洪水があり、その救済に奔走し一応の成果はあがったが、いろいろ誤解を受け、孤立状態に陥り、札幌に移り、キリスト教系の新聞北辰日報の主筆になり政治と絶縁をすることになりました。そこへ植村正久が来て、「君、伝道者になりたまえ」と、そう伝道者になることを薦められました。直寛50歳のときです。そして旭川講義所の伝道師になり、52歳のとき按手礼を受け牧師となりました。
59歳で札幌で病没するまで、軍隊、監獄伝道など伝道に励み、北海道にリバイバルをと祈り願っていました。そういう風な生活をして立派な証しを多く残しました。
新聞記者であった吉田氏は「龍馬復活」と題して坂本直寛のことを本に書かれています。
「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」ヘブル人への手紙の12章の11節。