2010年8月1日(日)坂本龍馬周辺のクリスチャン(1)
おはようございます。山田教会の門脇昭です。私は25歳、高知にあるミッションスクール清和学園、当時の清和女子高等学校に教員として就職いたしました。そのときから土佐のキリスト教の歴史研究に興味を抱くようになりました。そのなかで坂本龍馬の一族の中に立派な信仰をもったクリスチャンがいることに気がつきました。
まずその一人沢辺琢磨、旧姓山本数馬をとりあげることにいたします。数馬は土佐藩の武士で龍馬の父方の従兄弟です。龍馬と齢は同じで、剣道を学び、江戸に出て龍馬とは別の道場で剣道を学んでいました。その道場の塾頭、武市半平太とも齢は大分離れていますが、母方の従兄弟にあたります。
そんな状況の中で事件が起きました。山本数馬は友人と銀座を歩いていたとき、風呂敷包みを拾いました。そのなかに外国製の時計が入っていました。数馬はその時計を質に入れて現金を得ようといたました。ところがその時計は盗品、盗まれたもので、その店に連絡が入っており、数馬はそれとは知らず、土佐藩士、山本数馬と名前を明かしました。盗まれた時計屋から土佐藩邸に連絡があり、武市と龍馬が呼び出され、事の次第が告げられた。二人は数馬はそんなことをする男ではないと思ったが、数馬を呼んでただした。そこで盗んだんではなく拾ったということが分かりました。二人はその時計を買い、元の時計屋に返し、いくらかお金を渡し、内々で済まして欲しいと頼み、承知してもらっていました。
それが他の方面から多くの人々の知るところになり、詮議が始まりました。これは面倒なことになった。そこで二人は相談をして、数馬を罪につけ切腹と言うようなことになれば、前途有望な人物を失うことになる。龍馬は一計を考えて、数馬を夜ひそかに呼び出し船に乗せて北に向かって逃がした。そういう事で事なきを得て、この事件はおわりましたけれども、その状況、その有様はテレビの龍馬伝で放映されました。ここで山本数馬が沢辺琢磨になり、神がいかに導いてロシア正教の司祭にまでしたかをお話しましょう。
江戸を船で逃れた数馬は北へ逃れて北海道の函館に到達いたしました。そこで投宿した宿の主人を得意の剣術で盗賊の難から助け出しました。その縁で函館に道場を開き、数馬は剣道を教えていた。その近くの神明社というところのお宮の宮司さんに見込まれ、婿養子となり、沢辺琢磨と名前を変えました。
その当時、函館は幕府の外国に開港した港のひとつで、ロシアは領事館を設置していました。その領事館にロシア正教の司祭ニコライが来ていました。そのニコライの日本語教師として働いておったのが新島襄であります。沢辺琢磨は剣道を通して新島襄と仲良しになり、ひそかにアメリカへ密航をするという新島襄をたすけ、無事アメリカに渡らせる助けをいたしました。後に新島襄は同志社大学を設立する、そのことはみなさんがご存知のことだと思います。
その新島から琢磨はニコライは日本の古典、古事記などを研究していると、聞かされていた。琢磨はニコライは日本を研究してキリスト教を布教し、それを梃子にして日本を侵略しようとしていると考えて、ある日、日本刀を持って面会を求め、場合によっては殺害しようと乗り込んだ。ニコライは平然として、部屋の鍵を内側から閉め、大きな声で怒声を発する琢磨に静かに「キリスト教の教えを知っていますか」と聴いた。琢磨は「知らない」と答えると、「まぁ、お座りください」と言って、静かに理路整然と教えを説いた。そのニコライの態度、人格に打たれ、教えに耳を傾けるようになり、その正しい教えに感服して求道するようになりました。何日かニコライの所に通ってイエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受けるようになり、クリスチャンになりました。さらに信仰を深めてロシア正教の司祭となりました。
「神は愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ人への手紙8章の28節。